うちゅうのくじら

そりゃあもういいひだったよ

ひとはなぜ戦争をするのか(A・アインシュタイン/S・フロイト)

争いも、人類の数も減っていく未来世界

はじめに

人類を戦争から解き放つことができるのか。

上記をテーマに、アインシュタインフロイトに手紙を送り、フロイトが返事を書いた。その公開書簡を記したものが本書である。

本書の興味深い点は、両者ともに戦争の根源は、政治・国際情勢や社会システムではなく、人間そのものにあると考えている点にある。

おそらく国際政治学者や政治家であれば、また別の観点から意見を述べるだろう。

しかし、物理学者であるアインシュタインと心理学者であるフロイトは、「戦争を完全になくす」ということを前提に議論を展開している。

そして、その行きつく先は、人間存在そのものだ。

この社会を構成しているのは人間であり、戦争を起こすのも人間であるから、人間そのものに原因を求めるのは、当然の帰結なのかしれない。

しかし、それは「戦争はなくならない」「戦争は必要悪だ」と考えている人間ではたどり着けないものであり、だからこそ両者の議論は、必然的に人間そのものへと向かっていったのだと感じる。

今、世界では2つの戦争が起こっている。

さらに拡大したり、また別の戦争に発展する可能性もある。

世界は緊張している。それに連鎖するように発生している民族間ヘイトもかなり深刻だ。

こういう状況下で、本書を読んでもおそらく何の役にも立たない。民間防衛の本を読んで、備えた方がよっぽど実用的だろう。

しかし、国家間の「戦争」を集団の「争い」に分解し、さらに個人の「暴力」まで解体していくと、なぜ我々の社会に様々な争いが絶えないのか、少しはわかるような気がするのだ。多くの人、機関が「世界平和」を掲げる一方で、戦争が起こりそれを抑止、もしくは停止させることもできない。理想と現実の乖離が繰り返し起こり続けている。

それは人間そのものが、生来的な暴力性を持っているからだ、と両者は説く。

そして、その個人の暴力性がどのようにして戦争へ向かっていくのか。

アインシュタインが問題提起し、フロイトはそれに応じる。そのようにして、2人の議論が始まるのである。

背景

人はなぜ戦争をするのか」アインシュタインとフロイトが話し合った「壮大な問題」(講談社学術文庫) | 現代ビジネス | 講談社(1/3)

「今の文明においてもっとも大事だと思われる事を、最も意見を交わしたい相手と書簡を交わしてください」

1932年に国際連連盟からアインシュタインに対して、こういう提案があった。

アインシュタインが選んだテーマは「戦争」、相手は心理学者のフロイトだった。共にユダヤ人であり、当時ナチスドイツに迫害される側でもあった。同時に国家やナショナリズムというものから一歩引いて見ている二人でもあった。

アインシュタインフロイトは手紙の中で、人の本能や性質、社会構造をひも解き、そこから「ひとはなぜ戦争するのか」という問いに対して、両者ともに同じ結論に至っている。

人間の攻撃性を完全に消し去ることなどできない。

両者が出した人間についての結論はこうであった。といっても、別に絶望しているわけではない。客観的事実を述べた上で、具体的な議論を展開していくのが学者というものだ。その前提条件の上で、「どうすれば戦争をなくせるのか」について、具体的な方法論を提示しつつ、いくつかの示唆がなされる。

アインシュタインの問いかけ

アインシュタインの問題提起

アインシュタインの手紙はこの問いかけから始まる。

「人間を戦争というくびきから解き放つことができるのか?」

これが私の選んだテーマです。(中略)

私の見るところ、専門家として戦争の問題に関わっている人すら自分たちの力で問題を解決できず、助けを求めているようです。彼らは心から望んでいるのです。学問に深く精通した人、人間の生活に通じている人から意見を聴きたい、と。

私自身は物理学者ですので、人間の感情や人間の想いの深みを覗くことには長けておりません。したがってこの手紙においても、問題をはっきりとした形で提出し、解決のための下準備を整えることしかできません。それ以上のことはあなたにお任せしようと思います。人間の衝動に関する深い知識で、問題に新たな光をあてていただきたいと考えております。

アインシュタインが考えた解決策はこうだ。

すべての国家が一致協力して、ひとつの機関を創りあげればよいのです。この機関に立法と司法の権限を与え、そこに国際的な問題についての解決を委ねればよい。(中略)それには国家が主権の一部を完全に放棄し、自らの活動に一定の枠をはめなければ、国際的な平和は望めない。

しかし、アインシュタイン自身が、この解決策に対しての問題点を挙げている。

ところが、ここですぐに最初の壁に突き当たります。裁判というのは人間が創りあげたものです。とすれば、周囲からの諸々の影響や圧力を受けざるを得ません。(中略)

第一に権力欲。いつの時代でも、国家の指導的な地位にいるものたちは、自分たちの権限が制限されることに強く反対します。それだけではありません。この権力欲を後押しするグループが現れるのです。金銭的な利益を追求し、その活動を押し進めるために、権力にすり寄るグループです。戦争の折に武器を売り、大きな利益を得ようとする人たちがその典型例でしょう。

そして、現状ではこのような絶対的権力のある国際的な機関を設立するのは困難であると言及する。

ここからアインシュタインの問題提起が始まっていく。

数世紀ものあいだ、国際平和を実現するために、数多くの人が真剣な努力を傾けてきました。しかし、その真撃な努力にもかかわらず、いまだに平和が訪れていません。とすれば、こう考えざるを得ません。

人間の心自体に問題があるのだ。人間の心のなかに、平和への努力に抗う種々の力が働いているのだ。

そして、人間のある本能的欲求に触れる。

「人間には本能的な欲求が潜んでいる。増悪に駆られ、相手を絶滅させようとする欲求が!」

アインシュタインは、「これこそ戦争にまるまわる複雑な問題の根底に眠る問題です」と続け、その前提の上でフロイトへ問いを投げかけている。

人間の心を特定の方向に導き、増悪と破壊という心の病に冒されないようにすることはできるのか?

フロイトの手紙と回答

心理学の巨匠フロイトとは|経歴や思想をわかりやすく解説 | セミナーといえばセミナーズ

人間もまた暴力で決着をつける生き物である。

これに対して、フロイトは「人間から攻撃的な性質を取り除くなど、できそうもない」と概ね同意しつつ、さらには「戦争は自然世界の掟に即しており、生物学的なレベルでは健全であり、避けがたいもの」とまで言っている。

人と人とのあいだの利害対立、これは基本的に暴力によって解決されるものです。動物たちはみなそうやって決着をつけています。人間も動物なのですから、やはり暴力で決着をつけます。ただ人間の場合は意見の対立というのも生じます。(中略)しかしほどなく、文字通りの腕力だけでなく、武器が用いられるようになりました。強力な武器を手にしたもの、武器を巧みに使用したものが勝利を収めるようになるのです。

究極の暴力である核兵器を手にした国家が、どのように振る舞えるかは、今日の私たちが知るところであろう。

自分は攻撃の意志はなくとも、他者が強力な武器を保持している以上、こちらも対抗するために武装強化せざるを得ない。そういう時代に我々は生きている。

相互確証破壊」という報復的核攻撃の概念のもと、我々の平和は維持されている。

そう考えると、我々は暴力の傘の元に日常が成り立っていることに気づく。

さて、その上でフロイト精神分析の観点から意見をこう述べている。

人間はなぜ、いとも簡単に戦争に駆られるのか。あなたはこのことを不思議に思い、こう推測しました。人間の心自体に問題があるのではないか。(中略)この点でも、私はあなたの意見に全面的に賛同いたします。そのような本能が人間にはある、と私は信じています。そして、増悪への本能がどのように現れるのかについて、近年、一生懸命に研究してきました。

人間の欲動には2種類ある。

それはエロスとタナトスだとフロイトは述べている。物理学者のアインシュタインに対して、フロイトは人間の心の仕組みを丁寧に説明していく。

フロイトは、エロスは保持し統一しようとする生の欲動と言う。場合によっては性的欲動と呼べるが、一般に言われるエロスという言葉よりもより広義である。

タナトスは破壊し、殺害しようとする欲動であり、攻撃本能、破壊本能とされているものだ。フロイトは、「死の欲動」は人間に常に潜在しており、何らかの理由で「退行」したときに発動しやすいと考えた。

アインシュタインが破壊と増悪を「心の病」と表現しているのに対して、フロイトは「破壊や増悪もまた人間に備わっている根源的な衝動」という観点で述べている。

つまり、フロイトに言わせれば、それは心の病でもなんでもなく、人間が本来持っている性質の1つに過ぎないのである。

知性と欲動、理性と本能、エロスとタナトス、相反するものから人はできている。

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フロイトはさらに2つの欲動が互いを促進しあったり、対立しあったり生命現象が生まれ、一方の欲動が、他方の欲動と切り離されて単独で活動することはありえないと思う、と書いている。どちらの欲動が働く場合においても、他方の欲動と混ぜ合わさり、それがいくつも合わさって人間の行動が起こされるのだ、と。

つまり人間が人間である以上、戦争は避けがたいものであるということなのだろう。

多くの動機が戦争に応じようとしている。高貴な動機も卑賎な動機もあれば、公然と主張される動機も、黙して語られない動機も。

さらにフロイトは、人間は攻撃性を消し去ることはできないという前提の元、こう述べた。

人間がすぐに戦火を交えてしまうのが破壊欲動(タナトス)の成せる業だとしたら、その反対の欲動であるエロスを呼び覚ませばよい。

フロイトが言うところのエロスとは2つあり、1つは「愛するものへの絆」2つめは「一体感や帰属意識」である。

「愛」という言葉をフロイトは使ったが、他者との感情的なつながりのことであろう。それは相互理解であり、寛容性という言葉に置き換えられるかもしれない。

「一体感や帰属意識」とは、同一化とも言い、いわゆる相手の側に立って考えるということだ。

フロイトの結論

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文化の発展は戦争をなくす。

そのためには最終的に社会が「文化的」になる必要があるとフロイトは指摘する。そうしない限り、戦争は終わらないと言うのだ。

「文化の発展は戦争をなくす」というのが、フロイトの最終的な結論である。

「ほとんどの人は気づいていないようですが」と前置きし、「文化は人の心と体を変化させていくはずだ」と続ける。

なぜ、文化は欲動を抑えることができるのか?

文化とは人間の精神活動が作り出したすべてのもので、科学や芸術、学問、宗教または道徳、美意識など人間生活を高めていく上で新しい価値を生み出していくものだ。

フロイトは、文化発展の先には、心身の変化があり、生理的レべルで争いを拒否するようになると述べている。文化の発展が生み出す顕著な心理学的現象は2つあり、1つは知性の強化、もう1つは攻撃本能を内に向けることである。

文化発展の良い部分も述べているが、きちんと負の部分にも触れている。文化の発展がもたらす負の側面として、フロイトは、出生率の低下を挙げている。

文化が発展していくと、人類が消滅する可能性があります。なぜなら、文化発展のために人間の性的な機能が様々な形で損なわれているからです。今日ですら、文化の洗礼を受けていない人種、文化の発展に取り残された社会階層の人たちが人口を増加させているのに対し、文化を発展させた人々は子供を産まなくなっています。(中略)文化の発展が人間の心のあり方に変化を引き起こすことは明らかで、誰もがすぐに気づくところです。では、どのような変化が起きたのでしょうか、ストレートで本能的な欲望に導かれることが少なくなり、その度合いが弱まってきました。

性的欲求が下がるのであれば、攻撃欲求も減少して不思議ではない。

現在の日本の少子化問題も、もちろん全てではないにせよ、フロイトの言うところの文化の発展が一端を担っているようにも感じる。

そういう意味で言うと、確かに今の若い世代は文化的であると感じる。個人の尊厳を認めていく時代だ。私自身や私の上の世代が無意識に抱いていた価値観が、ことごとくひっくり返っていく様は、どこか心地いいものがある。明らかに文化は進化し、洗練されていっているのだろう。

とすれば、今後より文化的な発展が望めれば、人間の性的欲動のみならず、暴力性をも削ぎ落して戦争をはじめとする争いごとは減っていくのだろうか。

フロイトの考える未来社

細胞レベルでの戦争拒否。

フロイトは最後にこう書いている。

戦争への拒絶は、単なる知性レベルでの拒否、単なる感情レベルでの拒否ではないと思われるのです。(中略)私はこう考えます。このような意識のあり方が、戦争への嫌悪感を生み出す礎になるのであると。

では、すべての人間が平和主義者になるまで、あとどれくらいの時間がかかるのでしょうか? この問いに明確な答えを与えることはできません。けれでも、文化の発展が生み出した心のあり方と、将来の戦争がもたらすとてつもない惨禍への不安、この2つが近い将来、戦争をなくす方向に人間を動かしていくと期待できるのではないでしょうか。これはユートピア的な希望ではないと思います。どのような回り道を経て、戦争が消えていくのか。それを推測することはできません。しかし、今の私たちにもこう言うことは許されていると思うのです。

文化の発展を促せば、戦争の終焉へ向けて歩みだすことができる!

所感

アインシュタインフロイトの手紙から約1世紀。

彼らがこの往復書簡を行ってから約90年経った。

人類が戦争から解放される気配は今のところない。暴力の歴史は、進化しつつ見事に繰り返されている。

人には生来的な暴力性が備わっている。そして、それを取り除くことはできない。

傷害事件や殺人事件は毎日起こり続け、映画やゲームなどのエンタメには暴力や破壊があふれ、SNSでは他人同士の言い争いが日常化している。個人に当てはめてみても、ちょっとしたことで攻撃的になってしまうことは誰しも経験することだ。もちろん私の中にも暴力性があり、日々その存在を感じることができる。

戦争という大きなテーマについて語るとき、しばしば抜け落ちるのがこの感覚だろう。つい社会システムや国際情勢、歴史的背景などに目が行きがちであるが、この根本的な性質を無視して戦争について語ることはできない。

アインシュタインはこの点を理解していたように思う。だからこそ、心理学者のフロイトを相手に選び、「人間の心を特定の方向に導くことはできるのか」と問いかけたのだろう。

それに対するフロイトの結論は、「文化の発展」だった。文化とは人間の精神活動の産物であり、人間がその知性と精神を高めていくことで、生来的な暴力性をも無意識のうちに拒否することができるのだ、と。

それは冒頭でも書いたように「人類を戦争から解放する」という前提に立っているからこその結論であり、「戦争を抑制する」という視点からはたどりつけないものだ。

戦争に対する態度は様々である。しかし、皆一様に「戦争はよくない」という価値観は共有しているように感じる。人には元々暴力性があるにもかかわらずである。

なぜか? それは人には知性があるからだ。だから「殺し合うのはやめろ」と叫ぶし、そのために武器を手に取ることもある。人間というのは、真に不合理な生き物だ。

フロイトは知性の集大成である文化が戦争を終戦に導くと説く。

私も知性は暴力を凌駕する、と信じたい。しかし、信じきれない側面があるのもまた事実だ。知性的な人間が戦争を起こす場合も往々にしてあるからだ。それは人間の社会システムや権力の維持を目的になされる場合である。

感情や知性レベルでは、戦争を抑止できない。

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しかし、希望はある。若い世代を中心にこの世界の「不合理なもの」は姿を消しつつある。私の周りにもふと気づけば廃れつつあるものがたくさんある。それはある意味、世界の洗練化でもある。洗練化とは本質的なものに近づくということだ。

しかし、「戦争は不合理なものだし、たくさんの悲劇を生む」という観点に立てばそうなのだが、それを理解していてもなお戦争を起こすのが人間だ。

それは感情や知性レベルで戦争を抑止できないことを示している。

だからこそ、無意識での戦争への拒否感を生み出す必要があるし、逆に言えばそれしか方法がないとフロイトは指摘してるように思う。

しかし、文化が発展していくと出生率が下がり、果ては人類が消滅する可能性があるともフロイトは指摘する。

これは興味深いことで、事実出生率は世界規模で低下しており、いわゆる先進国でその傾向は著明である。日本でも結婚はもはや選択の問題となり、出産も同様である。そして恋愛やセックスも同じような構図になりつつあるのだろう。性的欲動と同じように攻撃的欲動も低下するのであれば、どれほどの時間が必要かわからないが、そういう未来もありうるのだろう。つまり人類の数は減り続けるが、争いごとも過去のものになりつつある未来世界だ。

いつのまにか人が変わっている、というのが文化の発展の着地点のひとつなのだろう。それは人の本来性というものは、変わろうと思って変われるものでもない、という事実の裏返しでもある。

こう書くともはや何もできることはないような気もするが、事実そうなのだろう。悲しんでも、絶望しても、憤っても、わりきっても戦争が始まってしまえば、当事者以外はただ見守ることしかできない。復興に向けて手助けできるくらいであろう。

「世界は私たちを見捨てた。絶対に許さない」と言った被災国の少女のセリフは刺さるものがある。

その彼女に「文明の発展の先に戦争の終焉がある」と言っても、何の意味もないことである。これは未来に向けた提言であり、実用的な方法論ではないからである。必要なのは安全な避難所であり、食べ物であり、医薬品であり、場合によっては身を守るための対抗手段なのだろう。

これは、自分自身や家族の命が確保されてはじめて成り立つ論理でもある。そこに抽象論を持ってきても作用しないのは明らかだ。

しかし、フロイトの言うように、これはただの理想論でも、希望的観測ではない。抽象的な物事に本質は見出せるものだ。そう考えると、本書は戦争に対する本質論なのだろう。

人は変わりうる。本来持って生まれた性質さえも変わりうるのである。

良くも悪くもそういう生き物なのだ。そこに両者は希望を見出し、未来に託した。その未来は未だに彼方にあるが、回り道をしながらも進んでいる感覚は確かにある。

「もう殺し合ってほしくない」これは私個人の感覚であるが、それはこの世界とつながっている気がする。それは願いのようなものでもあり、祈りのようなものでもある。願っても祈っても何も変わりはしないが、それを知っていても、そうするのである。それが人間というものだ。だからそういう人間の性質にすがりつくしかないのである。

「お願いだから、もうやめてください」と。

そういう一見無意味とも思える祈りの先に、人と文化の発展が望めるのではないだろうか。

 

 

 

 

カーテンを洗う


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村上春樹の「ノルウェイの森」に突撃隊、という登場人物が出てくる。

主人公の大学寮の相部屋住人で、病的なまでの清潔好きなのだ。

その住人のおかげで主人公の部屋は死体安置所のように清潔だったと描写されている。

床にはちりひとつなく、窓ガラスにはくもりひとつなく、布団は週に一度干され、鉛筆はきちんと鉛筆立てに収まり、カーテンさえ月に一度洗濯された。僕の同居人が病的なまでの清潔好きだったからだ。僕は他の連中に「あいつカーテンまで洗うんだぜ」と言ったが誰もそんなことは信じなかった。カーテンというのは半永久的に窓にぶらさがっているものだと彼らは信じていたのだ。「あれは異常性格だよ」と彼らは言った。それからみんなは彼のことをナチとか突撃隊だとか呼ぶようになった。(ノルウェイの森上巻より)

私がこの本を読んだのは大学生の時だったが、私もそれまでカーテンは洗うものという概念がなかった。このシーンを読んで「なるほど」と思い、おもむろに本を置いてカーテンをひきはがし、洗濯機に放り込んだ。私の中で「カーテン」と「洗濯」という言葉がくっつくようになったのは、突撃隊のおかげである。

さすがに毎月は無理なので、大掃除の時期に合わせて洗うようにしている。洗うようになって気が付いたのだが、カーテンは意外と汚れているものだ。砂や花粉、ほこりやちりなど実に様々なものが風によって運ばれて、カーテンにまとわりつく。突撃隊がカーテンをこまめに洗うのもうなずける。

カーテンの洗濯は案外楽で、カーテンフックからカーテンを取り外し、洗濯機に放り込む。私は「おしゃれ着洗い」を選択し、洗い終わったらそのままフックに引っ掛けている。するとそのうち乾いている。干す手間が省けるのも、カーテン洗濯のいいところだ。今の時期は加湿器代わりにもなるのでちょうどよい。

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洗いたてのカーテンが風にふくらんでいるのを見ると、心休まるものがある。洗剤のにおいを含んだ風が部屋を取りぬけるのも心地いい。

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ちなみに突撃隊が主人公に蛍をあげるシーンがある。蛍はインスタント・コーヒーの瓶に入っていて、突撃隊が庭にいたのを捕まえたとのことだった。

主人公は夕暮れ時の屋上に上がり、その蛍を給水タンクの上に置いてやる。

蛍はやがて夏の淡い闇に消えていくのだが、このシーンは作品全体を象徴しているようで、私はとても好きだ。

洞窟のイドラ

この世界はありとあらゆる洞窟的偏見に満ちている。

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人間は、しばしば思い込みや勘違いによる事実誤認を起こす生き物である。

いわゆる偏見や先入観、バイアスというものだ。色眼鏡、レッテルといった言葉も当てはまるかもしれない。そして、それらの思い込みは、往々にして物事の本来の姿を歪めてしまう。さらにやっかいなのが、人は一度思いこんでしまうと、そこからなかなか抜け出せないし、自分の思い込みを正当化するために、他の事象も都合よく解釈してしまう。いわゆる確証バイアスというやつで「人は見たいものしか見ない」ということでもある。だからこそ人間は面白いと思ったりもするのだが、こういう勘違いの果てに、対立や争いがあることも多い。したがって、呑気に面白がってはいられないというのも現実問題としてある。その人(人種、国家、価値観)の本来の姿が、様々な形に歪められ、それがあたかも本当の姿かのように認知されてしまうのだ。こういうことは、大なり小なり我々の社会で頻繁に起こっているように感じる。

ベーコンさんの提言

さて、フランシス・ベーコンという人が、そういった偏見や思い込みを排除するには、帰納法を使い「本当にそうなの?」とういう確認作業をしていく必要がある、と言っている。ベーコンさんは「知は力なり」というカッコイイ言葉を残した中世イギリスの哲学者である。

フランスの美味しいベーコンのことではない

ベーコンさんは人間が思い込みを起こす原因を論理化した。それがイドラ論であり、幻影、偶像という意味らしい。イドラ、というとなんだかドラクエの呪文みたいでこれまたカッコイイ。ちなみにアイドルの語源はこのイドラである。アイドルとは、ファンの理想の幻影であり、偶像化したもの、ということなのだろう。

さて、ベーコンさんが提唱するイドラは4つある。それぞれ種族、市場、洞窟、劇場というらしい。そのうちのひとつに「洞窟のイドラ」がある。

イングランド経験論の夜明け・西洋哲学の基本も。|竹田名平

人間は狭い洞窟から世界を眺めている。

洞窟のイドラとは、個人的な経験を一般化してしまうということだ。自己と他人を同一視してしまうことでもある。

「私がこうだから、あなた(世間)もこう」と考えてしまうことだ。

洞窟とは、その個人が経験したことや、個人が所属しているコミュニティから見聞きしたもののメタファーである。宗教や教育、家庭環境、読書もそれに当たる。洞窟が世界そのものであると錯覚してしまうのだ。

あくまで個人的な経験にすぎない事柄を、まるで自分以外の他人にも当てはまる事象かのような錯覚に陥り、その結果、偏見や先入観などが起こる、ということらしい。

例えば、「結婚は人生の墓場だ」という考えを持っている人が、結婚制度や既婚者をも批判することがある。その人の家庭環境や個人的経験、周囲の人間からの情報などから判断してそういう考えに行きつくのだろうが、それが社会一般に当てはまるかといえば、必ずしもそうでもないというのが本当のところだろう。その人の周りに離婚経験者が多ければそう思うだろうし、円満な夫婦が多ければそう思わないだろう。それはあくまで個人的な経験から導き出される偏見なのである、とベーコンさんは洞窟のイデア論を通して説くのだ。

この世界はありとあらゆる洞窟的偏見に満ちている。

レッテルを貼られたひよこ

ほとんどの人間は偏見と共に生きている。人間の数だけ偏見があるのだろう。ある意味人間らしいと言える。人間とは勘違いする生き物なのだ。

かく言う私も偏見に満ち溢れている人間だ。よく考えてみると、そのほとんどが個人的経験によるものが多い。あらゆるものに洞窟的レッテルを貼り、そのレッテルを通して対象を見ている節はある。

そして、人間社会に生きていれば、レッテルを貼るだけでなく、貼られてしまうこともしばしば起こる。これは多くの人が経験することなのだろうと思う。

へりくつモンスター。

本当はとても丁寧に仕事をしているだけなのに、人より遅いというだけで「あいつは仕事ができない」とレッテル貼りされた人間がつぶれていく様を何度も見てきたし、私自身も「常識がない」だの「変人」だの「勘違いメガネ」などとよく言われてきた。「へりくつモンスター」と言った人もいた(昔付き合ってた彼女である)今思うと、なかなかセンスがある言葉である。

そのたびに腹を立てたり、理屈を並べたてて、弁護したり自己正当化したりしてきたが(こういうところがへりくつモンスターたる所以である)そのほとんどが何の効果もなかった。そして、最終的に「まあ人間とは(自分とは)そういうものなんだ」という結論に至るようになった。

自分の感覚がすなわち他人の感覚ではない、ということ。

「あいつはおかしい」とか「あいつが悪い」とか言うセリフは、洞窟的価値観から生まれるものだろう。私にそれを責める資格もないし、別段悪いことだとも思わない。ただ残念だなあと思うし、すぐ否定する人や社会にはうんざりしている側面もある。なぜなら、そういう言い合いの果てに何があるかといえば、対立であり別離であったりするからだ。着地点を見出すことが容易ではないのだ。かと言って、人類皆友達だとも思わない。ただ自分にとって本当に大切な人とそうなってしまうのは、大きな損失であるような気がするのだ。

だから、人にはそれぞれの洞窟があるのだ、という感覚は必要なのだろう。

しかし、ついつい自分の感覚で人や物事を判断あるいは断定してしまう。これは人が人である以上、どんなに思慮深い人間でも陥る罠なのだろう。必ずしも相手を全面的に受け入れる必要はないが、自分の感覚がすなわち他人の感覚ではないということを理解しておくことは、この世界を生きる上でとても大切であると感じる。所詮、他人は他人であり、その他人を100%理解できることなどない。そのように私は感じている。親子でも、夫婦でも、友人でも何十年共に過ごしてもわからないことはある。なぜなら人間は誰しも極めて複雑だからだ。多面的であり、多層的であり、かつ経時的に変化していくからだ。

人は完全には分かり合えない。それでも、分かり合おうとすることはできると思うのだ。そのためには、そもそも人は完全には分かり合えないし、それぞれの洞窟的世界があり、洞窟的価値観があり、洞窟的正義がある。そういう前提認識が必要な気がしてならない。

他者理解とは、あくまでこの前提条件の上に成り立つものであると思うのだ。

大切な人の洞窟だけ気にすればいい。

そうやって自分にとって大切な人とだけ分かり合おうとする試みはとても人間らしいし、逆に言うと、大切でない人と無理に分かり合う必要もないと思うのだ。他人の洞窟に首を突っ込むことが果たしていいのかどうか、一旦立ち止まって考える必要はありそうだ。放っておけばいいのにと思うことが、この世界には多すぎる。

しかし、激しく口論していたり、殴り合いの喧嘩している両者にこういう事は無力であろう。それもまたこの世界のありようなのだと感じる。所詮人間は分かり合えないが、それを前提とした上で、分かり合おうとする試みは無駄ではないし、尊いものであると思う。

別に洞窟から世界を眺めたっていい。

ベーコンさんは哲学者らしくこの世界を正しく観察・理解しようとしていたから、こういった論理を提唱したのだと思うが、誰しもが世界の真の姿を追求しているわけではない。「そんなこと考えて何になるの?」という問いは、至極真っ当であると感じる。

それぞれの洞窟から物事を見ればいいし、そもそも人間はそういう生き物だ。誰しも客観的になど生きられない。

小説だって、作者が個人的洞窟から見た世界の普遍性を描こうとしているものだと思うし、それは芸術全般にも言えることだろう。最初にも書いたが、やはりそういう世界の見方は、良くも悪くも人間らしくあり、AIには真似できないことでもあるのだ。人間から見る世界は、決してフラットではない。物事には色んな側面があるものだ。それはそれぞれの洞窟的普遍性があるからなのだろう。

したがって、それぞれ偏見を持って生きていけばいいと思うし、偏見を持たれても「はいはい、イドラ、イドラ」と開き直ればいい。どうでもいい人にどう思われようが、どうでもいいことなのだ。しかし、本当に大切な人と関係性を築いていくとき、自分の洞窟から一歩出てみることが必要なのだと思う。

この世界は偏見に満ちているし、そういう世界に我々は生きている。

バカボンのパパではないが、「それでいいのだ」ということだ。

 

そう思うのだが、それもまた私の洞窟的発想なのである。

 

 

 

 

生まれた街の夢

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物心ついたときから、わたしの周りには大きな建物がたくさんあった。

都会と言うよりは、他の都市で持て余されたものが集まってひとかたまりになったような街だった。それは建物もそこに住む人達も同じだった。

いびつで混沌としていて、総体として遠くから街を眺めたとき、それが何なのかよくわからない。おそらく、わたしの街は周りからそんな風に思われていたんだと思う。

でもそこに住んでいるものからしたら、ひとつひとつの建物にはもちろん意味があった。集合住宅や学校や病院や商業ビルや発電所や工場、色あせた遊具がある公園、葬儀場や廃墟と化した建物、そして無数の電柱が真夏の雑草みたいにずんと伸びていて、その電柱のてっぺんには、黒い電線が網目状にぶらさがっている。わたしはその中を蟻のようにちょこまかと行き来しながら育った。

雑多な街だった。子供の目から見ても、よくないものもあったし、よいものもあったし、そのどちらにも属さない物もあったし、見分けがつかないものもあった。それでもわたしはこの街に愛着のようなものを感じていたと思う。どのような土地であっても、わたしにとっては大事な生まれ故郷だ。

乱立する建物の中には、それがどのような目的で建てられた物なのかわからないものもあった。

わたしはよくそんな建物をじっと眺めるのが好きだった。学校の帰りにその建物の近くに腰掛けて、そこを行き来する人たちを飽きることなく眺めているのが好きだった。

毎日毎日、わたしの知らない大人たちが知らない建物で知らない事をせっせとしている。それを想像するだけで、子供心になぜかワクワクしたものだった。あの人達は一体何をしているんだろう? あんな小難しい顔をしているから、さぞ大変なことをしているに違いない。そんなことを思いながら、駄菓子をつまみつつ、飽きることなく眺めていたものだった。

 

ここからは夢の話だ。今でもその街のことは夢に見る。

夢の中でわたしは空を飛んでいる。街の上空をぐるぐるとまわりながら、街を眺めている。とても気分は良い。

眼下に色あせた旗がバタバタと揺らめいている。あれは学校のグランドで、揺らめいているのは国旗だ。レゴブロックみたいに小さくなった人間が、学校ににのまれていく所が見える。

時刻は大抵夕暮れ時で、噴き上がる炎のような雲の下に、たくさんの建物の影が見える。雲はよどみなく流れて、やがて街に明かりが音もなく灯り出す。たくさんのネオンが明滅を繰り返している。

空は夕焼けのオレンジから夜の群青に変わり、さらに朝焼けの霞がかった乳白に変化する。

景色は早送りしたように目まぐるしく朝になり、昼になり、夕方になり、夜になり、そしてまた朝になった。太陽と月がせわしなく頭上を行き来している。それが繰り返される。

時がぐるぐるとめぐっていく街を見下ろしながら、わたしは自分や母親の姿を探す。かつて住んでいた建物のあたりをじっと見る。時間がかかればかかるほど、その変化が速くなっていくのを知っているから、どんどんとぼやけていく街に目をこらす。でも、その痕跡すら見つけることはできない。場所はわかっているはずなのに。しびれをきらして、街の中へ降りていこうとすると夢から覚めるか、別の夢に切り替わる。だから、わたしは空の上から探すしかないのだ。

やがて街の変化がめまぐるしくなり、ひとかたまりの光りとなる。その光は帯のような形にすーっと引き伸ばされると、立ち昇るようにして消えていく。その残像がしばらく残っていて、かすかな光を放っている。光は茶化すみたいにゆらめくと、やがて街と共に消えていく。

 

そういう夢をたまに見る。変な夢である。別に嫌な夢というわけでもないのだが、こうやって文章にしてみると妙な気持ちになる。しかし、おそらくもう10年以上は繰り返している。気にならないわけでもない。ひどくやわらかい扁平なトゲが、頭の中に浅く刺さっている気分だ。

夢の中でいけないのであれば、現実世界で行ってみるのもいいのかもしれない。

あの街は今もきちんと存在しているはずだ。それにこういうのは、映画の主人公になったみたいで少しワクワクしたりもする。

 

ガスボンベたちの行く末

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昔から色々とため込む癖はあった。

本も冬眠前のリスのごとくため込んでるし、日々の消耗品に関してもストックが何個かないと落ち着かない。

防災に関しても割と用意している方だと思う。大体年に1回は備蓄品や避難リュックをチェックしたり、整理したりしている。

今回も避難リュックやら備蓄している食料やらをごそごそしていたのだが、カセットガスボンベの期限が、来年の夏頃に切れる事に気が付いた。ちなみにガスボンベの期限は7年で、これはガスそのものの期限ではなく、ボンベ内の噴出口についているゴムパッキンの寿命らしい。仕方ないので買いなおすことにするのだが、問題は残ったボンベたちである。

私は多めにガスボンベを備蓄しており、現在まで鍋やらで消費した分を引くと36本残っている。36本。正直、この本数を廃棄するのは骨が折れる。

余命宣告されたガスボンベ達

というのも、ガスボンベはそのままでは捨てられず、中身のガスを抜く必要があるからだ。そのまま捨てると、回収する際に爆発する可能性があり、清掃員の人に危険が及んでしまう。ガス抜きするには、キャップを外して先端の突起を地面などのかたいものに押し当ればいいのだが、36本分をやるのは、いくらむしょくと言えどめんどくさい。

それに36本分のガスを巻き散らして、わずかな火花でも出ようもんなら、むしょく大爆発である。まあむしょく1名が爆死するくらい安いものではあるが、おそらく周りに大迷惑をかけてしまうので、どちらにせよいただけない。

そういうわけで、余命わずかなガスボンベの活用方法を考えた結果、ガスボンベが使えるカセットストーブというやつを購入することにした。

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イワタニのマイ暖という商品である。1本3時間弱程度もつようなので、36本あれば100時間程度はあたたまれる。もちろん災害時も使えるし、冬のキャンプに持っていくのもいいだろう。amazonプライムセールで12000円だった。定期的に換気も必要なようなので、ついでに一酸化炭素チェッカーも買った。

これで今まで日陰で過ごしていたガスボンベたちも、無事に使命を果たすことができそうだ。

 

ちなみに仮に首都直下型大地震が起きたとすると、ライフライン復旧の目標日数は、電気が6日、上水道が30日、ガスが55日とされている。比較的復旧が早い電気はともかく、上水道でおよそ1カ月、ガスは2カ月ほど使用できないことが想定される。ということは、飲料水や生活用水の確保は最優先課題となるだろう。最低でも1カ月、蛇口から水が出てこないことを想定するべきである。

その次に何を優先するかは色んな考え方があるだろうが、カセットコンロがあれば暖かい飲み物や食べ物を得ることができる。加熱調理できれば食中毒予防にもなるし、お湯で体や顔を綺麗にすることができるし、簡易的な焚火として暖も取れる。暖かさというのはメンタルにも良い。真冬であればなおさら必要になってくるだろう。それなりの量を備蓄していれば、困っている人に分けることもできるものだ。

そういうわけで、私はガスボンベを冬眠前のハリネズミのように溜め込んでいるのだ。

 

ちなみにガスのあの独特のにおいというのは、後からわざとつけているそうだ。元々ガスは無臭らしく、仮にガス漏れしても気付きにくいからだろう。考えた人、天才か。

 

伊勢神宮の穴場へ自転車で行く

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ちょっとズルした高校受験の話

伊勢は私が高校生のとき3年間暮らした町だ。

その年の1月にオーストラリアから日本に帰国し、帰国子女の特別枠で高校受験した。合格したのが伊勢にある高校だったというわけだ。確か英語と国語、論文、そして面接だけで受験した記憶がある。つまり、本来なら5教科受けねばならないところをちょっとズルしたわけである。

あれから20数年以上経ったが、母はここが気に入ったのか、ずっと住み続けている。そういうわけで、私も帰省するときは伊勢へと帰る。ふるさと、というわけではないが、割と愛着のある場所でもあるのだ。

伊勢ブラ

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自転車で伊勢へと帰ってきてからしばらく雨だったが、久しぶり晴れたので自転車で伊勢をブラブラすることにした。

伊勢といえば伊勢神宮、となるくらい伊勢神宮は有名であるが、私の好きな場所はその伊勢神宮の内宮から少し離れたところにある。

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内宮の入り口にある駐車場から実はまだ奥へと行ける。この道は剣峠という峠道へとつながり、五か所浦という伊勢志摩方面へと抜けることができる。一昔前はこの道をバスが走っていたらしい。

その道を内宮の入り口から1キロ弱南下すると、私のお気に入りスポットがある。

Google mapでは「とび石」という名称で表示されている場所だ。内宮に流れている五十鈴川の上流にあたる。文字通り、いくつかのとび石が川の中に整然と並んでいる。

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内宮入り口から徒歩なら10-15分、自転車なら5分程度進むとたどり着く。

とび石へ

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今回は昨日までの雨で増水していたため、渡るのは難しかったが、普段はなんなく向こう岸までたどりつける。

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夏は涼がとれるし、足だけでも川につけると気持ちがいい。そして、基本的に誰もいない。時々野生の鹿に会えるくらいである。

人に限ってはわたしのような物好きがたまに訪れるくらいである。森と川を流れる水の音しか聞こえない場所なのだ。

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ぼけっとする贅沢

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ここは空を眺めながらぼけっとするには最高の場所なのである。

都会にいると、こういう場所はあまりない。自分の部屋だとついつい色んなことをしてしまうし、カフェだと人の目が何かと気になる。

ちなみに「ぼけっとする」という言葉は、日本語にしかないらしい。「何もしない」という言葉が近いような気もするが、「ぼけっとする」はより能動的である。つまり、あえてぼけっとするというわけなのである。ある意味、贅沢な時間の使い方だ。

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日本ぼけっと協会の会員である私にとって、貴重な場所なのである。

とび石を超えると

自転車に乗っていたら、少し奥までサイクリングするのもいい。車はほとんど通らないが、路肩は木の枝や石、砂利なんかが多いため、時々後方を確認しつつ道路の真ん中を走るのがいいだろう。真昼間でも木陰で薄暗い箇所があるので、前後ライトは点滅させておくとよい。

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ちなみにとび石から少し行ったところに天然水が汲める場所がある。県外からこの水を汲みにやってくる人もいるらしい。自転車乗りはここでボトルに水を補給できる。

ヒルクライムが好きな人なら、そのまま剣峠まで登るのも楽しい。

今回はそこまで行く気がないので、途中からで折り返したが、何年か前に登った時の写真を貼っておく。

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登れば登るほど道路に色んなものが落ちていて、路面状況はあまりよくない。特に下りは注意が必要だ。しかし、ほとんど車の往来もなく頂上からの眺めは最高である。

その後、五十鈴川に沿ってしばらくサイクリングして帰ってきた。

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すすきとハイタッチしながら進む道。

そんなこんなで日が暮れていく。

過去を回想して懐かしむのも良いが、そろそろ現在と未来に目を向ける時が訪れつつある。そんな予感がよぎった初秋のサイクリングだった。