うちゅうのくじら

そりゃあもういいひだったよ

ひとはなぜ戦争をするのか(A・アインシュタイン/S・フロイト)

争いも、人類の数も減っていく未来世界

はじめに

人類を戦争から解き放つことができるのか。

上記をテーマに、アインシュタインフロイトに手紙を送り、フロイトが返事を書いた。その公開書簡を記したものが本書である。

本書の興味深い点は、両者ともに戦争の根源は、政治・国際情勢や社会システムではなく、人間そのものにあると考えている点にある。

おそらく国際政治学者や政治家であれば、また別の観点から意見を述べるだろう。

しかし、物理学者であるアインシュタインと心理学者であるフロイトは、「戦争を完全になくす」ということを前提に議論を展開している。

そして、その行きつく先は、人間存在そのものだ。

この社会を構成しているのは人間であり、戦争を起こすのも人間であるから、人間そのものに原因を求めるのは、当然の帰結なのかしれない。

しかし、それは「戦争はなくならない」「戦争は必要悪だ」と考えている人間ではたどり着けないものであり、だからこそ両者の議論は、必然的に人間そのものへと向かっていったのだと感じる。

今、世界では2つの戦争が起こっている。

さらに拡大したり、また別の戦争に発展する可能性もある。

世界は緊張している。それに連鎖するように発生している民族間ヘイトもかなり深刻だ。

こういう状況下で、本書を読んでもおそらく何の役にも立たない。民間防衛の本を読んで、備えた方がよっぽど実用的だろう。

しかし、国家間の「戦争」を集団の「争い」に分解し、さらに個人の「暴力」まで解体していくと、なぜ我々の社会に様々な争いが絶えないのか、少しはわかるような気がするのだ。多くの人、機関が「世界平和」を掲げる一方で、戦争が起こりそれを抑止、もしくは停止させることもできない。理想と現実の乖離が繰り返し起こり続けている。

それは人間そのものが、生来的な暴力性を持っているからだ、と両者は説く。

そして、その個人の暴力性がどのようにして戦争へ向かっていくのか。

アインシュタインが問題提起し、フロイトはそれに応じる。そのようにして、2人の議論が始まるのである。

背景

人はなぜ戦争をするのか」アインシュタインとフロイトが話し合った「壮大な問題」(講談社学術文庫) | 現代ビジネス | 講談社(1/3)

「今の文明においてもっとも大事だと思われる事を、最も意見を交わしたい相手と書簡を交わしてください」

1932年に国際連連盟からアインシュタインに対して、こういう提案があった。

アインシュタインが選んだテーマは「戦争」、相手は心理学者のフロイトだった。共にユダヤ人であり、当時ナチスドイツに迫害される側でもあった。同時に国家やナショナリズムというものから一歩引いて見ている二人でもあった。

アインシュタインフロイトは手紙の中で、人の本能や性質、社会構造をひも解き、そこから「ひとはなぜ戦争するのか」という問いに対して、両者ともに同じ結論に至っている。

人間の攻撃性を完全に消し去ることなどできない。

両者が出した人間についての結論はこうであった。といっても、別に絶望しているわけではない。客観的事実を述べた上で、具体的な議論を展開していくのが学者というものだ。その前提条件の上で、「どうすれば戦争をなくせるのか」について、具体的な方法論を提示しつつ、いくつかの示唆がなされる。

アインシュタインの問いかけ

アインシュタインの問題提起

アインシュタインの手紙はこの問いかけから始まる。

「人間を戦争というくびきから解き放つことができるのか?」

これが私の選んだテーマです。(中略)

私の見るところ、専門家として戦争の問題に関わっている人すら自分たちの力で問題を解決できず、助けを求めているようです。彼らは心から望んでいるのです。学問に深く精通した人、人間の生活に通じている人から意見を聴きたい、と。

私自身は物理学者ですので、人間の感情や人間の想いの深みを覗くことには長けておりません。したがってこの手紙においても、問題をはっきりとした形で提出し、解決のための下準備を整えることしかできません。それ以上のことはあなたにお任せしようと思います。人間の衝動に関する深い知識で、問題に新たな光をあてていただきたいと考えております。

アインシュタインが考えた解決策はこうだ。

すべての国家が一致協力して、ひとつの機関を創りあげればよいのです。この機関に立法と司法の権限を与え、そこに国際的な問題についての解決を委ねればよい。(中略)それには国家が主権の一部を完全に放棄し、自らの活動に一定の枠をはめなければ、国際的な平和は望めない。

しかし、アインシュタイン自身が、この解決策に対しての問題点を挙げている。

ところが、ここですぐに最初の壁に突き当たります。裁判というのは人間が創りあげたものです。とすれば、周囲からの諸々の影響や圧力を受けざるを得ません。(中略)

第一に権力欲。いつの時代でも、国家の指導的な地位にいるものたちは、自分たちの権限が制限されることに強く反対します。それだけではありません。この権力欲を後押しするグループが現れるのです。金銭的な利益を追求し、その活動を押し進めるために、権力にすり寄るグループです。戦争の折に武器を売り、大きな利益を得ようとする人たちがその典型例でしょう。

そして、現状ではこのような絶対的権力のある国際的な機関を設立するのは困難であると言及する。

ここからアインシュタインの問題提起が始まっていく。

数世紀ものあいだ、国際平和を実現するために、数多くの人が真剣な努力を傾けてきました。しかし、その真撃な努力にもかかわらず、いまだに平和が訪れていません。とすれば、こう考えざるを得ません。

人間の心自体に問題があるのだ。人間の心のなかに、平和への努力に抗う種々の力が働いているのだ。

そして、人間のある本能的欲求に触れる。

「人間には本能的な欲求が潜んでいる。増悪に駆られ、相手を絶滅させようとする欲求が!」

アインシュタインは、「これこそ戦争にまるまわる複雑な問題の根底に眠る問題です」と続け、その前提の上でフロイトへ問いを投げかけている。

人間の心を特定の方向に導き、増悪と破壊という心の病に冒されないようにすることはできるのか?

フロイトの手紙と回答

心理学の巨匠フロイトとは|経歴や思想をわかりやすく解説 | セミナーといえばセミナーズ

人間もまた暴力で決着をつける生き物である。

これに対して、フロイトは「人間から攻撃的な性質を取り除くなど、できそうもない」と概ね同意しつつ、さらには「戦争は自然世界の掟に即しており、生物学的なレベルでは健全であり、避けがたいもの」とまで言っている。

人と人とのあいだの利害対立、これは基本的に暴力によって解決されるものです。動物たちはみなそうやって決着をつけています。人間も動物なのですから、やはり暴力で決着をつけます。ただ人間の場合は意見の対立というのも生じます。(中略)しかしほどなく、文字通りの腕力だけでなく、武器が用いられるようになりました。強力な武器を手にしたもの、武器を巧みに使用したものが勝利を収めるようになるのです。

究極の暴力である核兵器を手にした国家が、どのように振る舞えるかは、今日の私たちが知るところであろう。

自分は攻撃の意志はなくとも、他者が強力な武器を保持している以上、こちらも対抗するために武装強化せざるを得ない。そういう時代に我々は生きている。

相互確証破壊」という報復的核攻撃の概念のもと、我々の平和は維持されている。

そう考えると、我々は暴力の傘の元に日常が成り立っていることに気づく。

さて、その上でフロイト精神分析の観点から意見をこう述べている。

人間はなぜ、いとも簡単に戦争に駆られるのか。あなたはこのことを不思議に思い、こう推測しました。人間の心自体に問題があるのではないか。(中略)この点でも、私はあなたの意見に全面的に賛同いたします。そのような本能が人間にはある、と私は信じています。そして、増悪への本能がどのように現れるのかについて、近年、一生懸命に研究してきました。

人間の欲動には2種類ある。

それはエロスとタナトスだとフロイトは述べている。物理学者のアインシュタインに対して、フロイトは人間の心の仕組みを丁寧に説明していく。

フロイトは、エロスは保持し統一しようとする生の欲動と言う。場合によっては性的欲動と呼べるが、一般に言われるエロスという言葉よりもより広義である。

タナトスは破壊し、殺害しようとする欲動であり、攻撃本能、破壊本能とされているものだ。フロイトは、「死の欲動」は人間に常に潜在しており、何らかの理由で「退行」したときに発動しやすいと考えた。

アインシュタインが破壊と増悪を「心の病」と表現しているのに対して、フロイトは「破壊や増悪もまた人間に備わっている根源的な衝動」という観点で述べている。

つまり、フロイトに言わせれば、それは心の病でもなんでもなく、人間が本来持っている性質の1つに過ぎないのである。

知性と欲動、理性と本能、エロスとタナトス、相反するものから人はできている。

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フロイトはさらに2つの欲動が互いを促進しあったり、対立しあったり生命現象が生まれ、一方の欲動が、他方の欲動と切り離されて単独で活動することはありえないと思う、と書いている。どちらの欲動が働く場合においても、他方の欲動と混ぜ合わさり、それがいくつも合わさって人間の行動が起こされるのだ、と。

つまり人間が人間である以上、戦争は避けがたいものであるということなのだろう。

多くの動機が戦争に応じようとしている。高貴な動機も卑賎な動機もあれば、公然と主張される動機も、黙して語られない動機も。

さらにフロイトは、人間は攻撃性を消し去ることはできないという前提の元、こう述べた。

人間がすぐに戦火を交えてしまうのが破壊欲動(タナトス)の成せる業だとしたら、その反対の欲動であるエロスを呼び覚ませばよい。

フロイトが言うところのエロスとは2つあり、1つは「愛するものへの絆」2つめは「一体感や帰属意識」である。

「愛」という言葉をフロイトは使ったが、他者との感情的なつながりのことであろう。それは相互理解であり、寛容性という言葉に置き換えられるかもしれない。

「一体感や帰属意識」とは、同一化とも言い、いわゆる相手の側に立って考えるということだ。

フロイトの結論

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文化の発展は戦争をなくす。

そのためには最終的に社会が「文化的」になる必要があるとフロイトは指摘する。そうしない限り、戦争は終わらないと言うのだ。

「文化の発展は戦争をなくす」というのが、フロイトの最終的な結論である。

「ほとんどの人は気づいていないようですが」と前置きし、「文化は人の心と体を変化させていくはずだ」と続ける。

なぜ、文化は欲動を抑えることができるのか?

文化とは人間の精神活動が作り出したすべてのもので、科学や芸術、学問、宗教または道徳、美意識など人間生活を高めていく上で新しい価値を生み出していくものだ。

フロイトは、文化発展の先には、心身の変化があり、生理的レべルで争いを拒否するようになると述べている。文化の発展が生み出す顕著な心理学的現象は2つあり、1つは知性の強化、もう1つは攻撃本能を内に向けることである。

文化発展の良い部分も述べているが、きちんと負の部分にも触れている。文化の発展がもたらす負の側面として、フロイトは、出生率の低下を挙げている。

文化が発展していくと、人類が消滅する可能性があります。なぜなら、文化発展のために人間の性的な機能が様々な形で損なわれているからです。今日ですら、文化の洗礼を受けていない人種、文化の発展に取り残された社会階層の人たちが人口を増加させているのに対し、文化を発展させた人々は子供を産まなくなっています。(中略)文化の発展が人間の心のあり方に変化を引き起こすことは明らかで、誰もがすぐに気づくところです。では、どのような変化が起きたのでしょうか、ストレートで本能的な欲望に導かれることが少なくなり、その度合いが弱まってきました。

性的欲求が下がるのであれば、攻撃欲求も減少して不思議ではない。

現在の日本の少子化問題も、もちろん全てではないにせよ、フロイトの言うところの文化の発展が一端を担っているようにも感じる。

そういう意味で言うと、確かに今の若い世代は文化的であると感じる。個人の尊厳を認めていく時代だ。私自身や私の上の世代が無意識に抱いていた価値観が、ことごとくひっくり返っていく様は、どこか心地いいものがある。明らかに文化は進化し、洗練されていっているのだろう。

とすれば、今後より文化的な発展が望めれば、人間の性的欲動のみならず、暴力性をも削ぎ落して戦争をはじめとする争いごとは減っていくのだろうか。

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細胞レベルでの戦争拒否。

フロイトは最後にこう書いている。

戦争への拒絶は、単なる知性レベルでの拒否、単なる感情レベルでの拒否ではないと思われるのです。(中略)私はこう考えます。このような意識のあり方が、戦争への嫌悪感を生み出す礎になるのであると。

では、すべての人間が平和主義者になるまで、あとどれくらいの時間がかかるのでしょうか? この問いに明確な答えを与えることはできません。けれでも、文化の発展が生み出した心のあり方と、将来の戦争がもたらすとてつもない惨禍への不安、この2つが近い将来、戦争をなくす方向に人間を動かしていくと期待できるのではないでしょうか。これはユートピア的な希望ではないと思います。どのような回り道を経て、戦争が消えていくのか。それを推測することはできません。しかし、今の私たちにもこう言うことは許されていると思うのです。

文化の発展を促せば、戦争の終焉へ向けて歩みだすことができる!

所感

アインシュタインフロイトの手紙から約1世紀。

彼らがこの往復書簡を行ってから約90年経った。

人類が戦争から解放される気配は今のところない。暴力の歴史は、進化しつつ見事に繰り返されている。

人には生来的な暴力性が備わっている。そして、それを取り除くことはできない。

傷害事件や殺人事件は毎日起こり続け、映画やゲームなどのエンタメには暴力や破壊があふれ、SNSでは他人同士の言い争いが日常化している。個人に当てはめてみても、ちょっとしたことで攻撃的になってしまうことは誰しも経験することだ。もちろん私の中にも暴力性があり、日々その存在を感じることができる。

戦争という大きなテーマについて語るとき、しばしば抜け落ちるのがこの感覚だろう。つい社会システムや国際情勢、歴史的背景などに目が行きがちであるが、この根本的な性質を無視して戦争について語ることはできない。

アインシュタインはこの点を理解していたように思う。だからこそ、心理学者のフロイトを相手に選び、「人間の心を特定の方向に導くことはできるのか」と問いかけたのだろう。

それに対するフロイトの結論は、「文化の発展」だった。文化とは人間の精神活動の産物であり、人間がその知性と精神を高めていくことで、生来的な暴力性をも無意識のうちに拒否することができるのだ、と。

それは冒頭でも書いたように「人類を戦争から解放する」という前提に立っているからこその結論であり、「戦争を抑制する」という視点からはたどりつけないものだ。

戦争に対する態度は様々である。しかし、皆一様に「戦争はよくない」という価値観は共有しているように感じる。人には元々暴力性があるにもかかわらずである。

なぜか? それは人には知性があるからだ。だから「殺し合うのはやめろ」と叫ぶし、そのために武器を手に取ることもある。人間というのは、真に不合理な生き物だ。

フロイトは知性の集大成である文化が戦争を終戦に導くと説く。

私も知性は暴力を凌駕する、と信じたい。しかし、信じきれない側面があるのもまた事実だ。知性的な人間が戦争を起こす場合も往々にしてあるからだ。それは人間の社会システムや権力の維持を目的になされる場合である。

感情や知性レベルでは、戦争を抑止できない。

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しかし、希望はある。若い世代を中心にこの世界の「不合理なもの」は姿を消しつつある。私の周りにもふと気づけば廃れつつあるものがたくさんある。それはある意味、世界の洗練化でもある。洗練化とは本質的なものに近づくということだ。

しかし、「戦争は不合理なものだし、たくさんの悲劇を生む」という観点に立てばそうなのだが、それを理解していてもなお戦争を起こすのが人間だ。

それは感情や知性レベルで戦争を抑止できないことを示している。

だからこそ、無意識での戦争への拒否感を生み出す必要があるし、逆に言えばそれしか方法がないとフロイトは指摘してるように思う。

しかし、文化が発展していくと出生率が下がり、果ては人類が消滅する可能性があるともフロイトは指摘する。

これは興味深いことで、事実出生率は世界規模で低下しており、いわゆる先進国でその傾向は著明である。日本でも結婚はもはや選択の問題となり、出産も同様である。そして恋愛やセックスも同じような構図になりつつあるのだろう。性的欲動と同じように攻撃的欲動も低下するのであれば、どれほどの時間が必要かわからないが、そういう未来もありうるのだろう。つまり人類の数は減り続けるが、争いごとも過去のものになりつつある未来世界だ。

いつのまにか人が変わっている、というのが文化の発展の着地点のひとつなのだろう。それは人の本来性というものは、変わろうと思って変われるものでもない、という事実の裏返しでもある。

こう書くともはや何もできることはないような気もするが、事実そうなのだろう。悲しんでも、絶望しても、憤っても、わりきっても戦争が始まってしまえば、当事者以外はただ見守ることしかできない。復興に向けて手助けできるくらいであろう。

「世界は私たちを見捨てた。絶対に許さない」と言った被災国の少女のセリフは刺さるものがある。

その彼女に「文明の発展の先に戦争の終焉がある」と言っても、何の意味もないことである。これは未来に向けた提言であり、実用的な方法論ではないからである。必要なのは安全な避難所であり、食べ物であり、医薬品であり、場合によっては身を守るための対抗手段なのだろう。

これは、自分自身や家族の命が確保されてはじめて成り立つ論理でもある。そこに抽象論を持ってきても作用しないのは明らかだ。

しかし、フロイトの言うように、これはただの理想論でも、希望的観測ではない。抽象的な物事に本質は見出せるものだ。そう考えると、本書は戦争に対する本質論なのだろう。

人は変わりうる。本来持って生まれた性質さえも変わりうるのである。

良くも悪くもそういう生き物なのだ。そこに両者は希望を見出し、未来に託した。その未来は未だに彼方にあるが、回り道をしながらも進んでいる感覚は確かにある。

「もう殺し合ってほしくない」これは私個人の感覚であるが、それはこの世界とつながっている気がする。それは願いのようなものでもあり、祈りのようなものでもある。願っても祈っても何も変わりはしないが、それを知っていても、そうするのである。それが人間というものだ。だからそういう人間の性質にすがりつくしかないのである。

「お願いだから、もうやめてください」と。

そういう一見無意味とも思える祈りの先に、人と文化の発展が望めるのではないだろうか。