うちゅうのくじら

そりゃあもういいひだったよ

洞窟のイドラ

この世界はありとあらゆる洞窟的偏見に満ちている。

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人間は、しばしば思い込みや勘違いによる事実誤認を起こす生き物である。

いわゆる偏見や先入観、バイアスというものだ。色眼鏡、レッテルといった言葉も当てはまるかもしれない。そして、それらの思い込みは、往々にして物事の本来の姿を歪めてしまう。さらにやっかいなのが、人は一度思いこんでしまうと、そこからなかなか抜け出せないし、自分の思い込みを正当化するために、他の事象も都合よく解釈してしまう。いわゆる確証バイアスというやつで「人は見たいものしか見ない」ということでもある。だからこそ人間は面白いと思ったりもするのだが、こういう勘違いの果てに、対立や争いがあることも多い。したがって、呑気に面白がってはいられないというのも現実問題としてある。その人(人種、国家、価値観)の本来の姿が、様々な形に歪められ、それがあたかも本当の姿かのように認知されてしまうのだ。こういうことは、大なり小なり我々の社会で頻繁に起こっているように感じる。

ベーコンさんの提言

さて、フランシス・ベーコンという人が、そういった偏見や思い込みを排除するには、帰納法を使い「本当にそうなの?」とういう確認作業をしていく必要がある、と言っている。ベーコンさんは「知は力なり」というカッコイイ言葉を残した中世イギリスの哲学者である。

フランスの美味しいベーコンのことではない

ベーコンさんは人間が思い込みを起こす原因を論理化した。それがイドラ論であり、幻影、偶像という意味らしい。イドラ、というとなんだかドラクエの呪文みたいでこれまたカッコイイ。ちなみにアイドルの語源はこのイドラである。アイドルとは、ファンの理想の幻影であり、偶像化したもの、ということなのだろう。

さて、ベーコンさんが提唱するイドラは4つある。それぞれ種族、市場、洞窟、劇場というらしい。そのうちのひとつに「洞窟のイドラ」がある。

イングランド経験論の夜明け・西洋哲学の基本も。|竹田名平

人間は狭い洞窟から世界を眺めている。

洞窟のイドラとは、個人的な経験を一般化してしまうということだ。自己と他人を同一視してしまうことでもある。

「私がこうだから、あなた(世間)もこう」と考えてしまうことだ。

洞窟とは、その個人が経験したことや、個人が所属しているコミュニティから見聞きしたもののメタファーである。宗教や教育、家庭環境、読書もそれに当たる。洞窟が世界そのものであると錯覚してしまうのだ。

あくまで個人的な経験にすぎない事柄を、まるで自分以外の他人にも当てはまる事象かのような錯覚に陥り、その結果、偏見や先入観などが起こる、ということらしい。

例えば、「結婚は人生の墓場だ」という考えを持っている人が、結婚制度や既婚者をも批判することがある。その人の家庭環境や個人的経験、周囲の人間からの情報などから判断してそういう考えに行きつくのだろうが、それが社会一般に当てはまるかといえば、必ずしもそうでもないというのが本当のところだろう。その人の周りに離婚経験者が多ければそう思うだろうし、円満な夫婦が多ければそう思わないだろう。それはあくまで個人的な経験から導き出される偏見なのである、とベーコンさんは洞窟のイデア論を通して説くのだ。

この世界はありとあらゆる洞窟的偏見に満ちている。

レッテルを貼られたひよこ

ほとんどの人間は偏見と共に生きている。人間の数だけ偏見があるのだろう。ある意味人間らしいと言える。人間とは勘違いする生き物なのだ。

かく言う私も偏見に満ち溢れている人間だ。よく考えてみると、そのほとんどが個人的経験によるものが多い。あらゆるものに洞窟的レッテルを貼り、そのレッテルを通して対象を見ている節はある。

そして、人間社会に生きていれば、レッテルを貼るだけでなく、貼られてしまうこともしばしば起こる。これは多くの人が経験することなのだろうと思う。

へりくつモンスター。

本当はとても丁寧に仕事をしているだけなのに、人より遅いというだけで「あいつは仕事ができない」とレッテル貼りされた人間がつぶれていく様を何度も見てきたし、私自身も「常識がない」だの「変人」だの「勘違いメガネ」などとよく言われてきた。「へりくつモンスター」と言った人もいた(昔付き合ってた彼女である)今思うと、なかなかセンスがある言葉である。

そのたびに腹を立てたり、理屈を並べたてて、弁護したり自己正当化したりしてきたが(こういうところがへりくつモンスターたる所以である)そのほとんどが何の効果もなかった。そして、最終的に「まあ人間とは(自分とは)そういうものなんだ」という結論に至るようになった。

自分の感覚がすなわち他人の感覚ではない、ということ。

「あいつはおかしい」とか「あいつが悪い」とか言うセリフは、洞窟的価値観から生まれるものだろう。私にそれを責める資格もないし、別段悪いことだとも思わない。ただ残念だなあと思うし、すぐ否定する人や社会にはうんざりしている側面もある。なぜなら、そういう言い合いの果てに何があるかといえば、対立であり別離であったりするからだ。着地点を見出すことが容易ではないのだ。かと言って、人類皆友達だとも思わない。ただ自分にとって本当に大切な人とそうなってしまうのは、大きな損失であるような気がするのだ。

だから、人にはそれぞれの洞窟があるのだ、という感覚は必要なのだろう。

しかし、ついつい自分の感覚で人や物事を判断あるいは断定してしまう。これは人が人である以上、どんなに思慮深い人間でも陥る罠なのだろう。必ずしも相手を全面的に受け入れる必要はないが、自分の感覚がすなわち他人の感覚ではないということを理解しておくことは、この世界を生きる上でとても大切であると感じる。所詮、他人は他人であり、その他人を100%理解できることなどない。そのように私は感じている。親子でも、夫婦でも、友人でも何十年共に過ごしてもわからないことはある。なぜなら人間は誰しも極めて複雑だからだ。多面的であり、多層的であり、かつ経時的に変化していくからだ。

人は完全には分かり合えない。それでも、分かり合おうとすることはできると思うのだ。そのためには、そもそも人は完全には分かり合えないし、それぞれの洞窟的世界があり、洞窟的価値観があり、洞窟的正義がある。そういう前提認識が必要な気がしてならない。

他者理解とは、あくまでこの前提条件の上に成り立つものであると思うのだ。

大切な人の洞窟だけ気にすればいい。

そうやって自分にとって大切な人とだけ分かり合おうとする試みはとても人間らしいし、逆に言うと、大切でない人と無理に分かり合う必要もないと思うのだ。他人の洞窟に首を突っ込むことが果たしていいのかどうか、一旦立ち止まって考える必要はありそうだ。放っておけばいいのにと思うことが、この世界には多すぎる。

しかし、激しく口論していたり、殴り合いの喧嘩している両者にこういう事は無力であろう。それもまたこの世界のありようなのだと感じる。所詮人間は分かり合えないが、それを前提とした上で、分かり合おうとする試みは無駄ではないし、尊いものであると思う。

別に洞窟から世界を眺めたっていい。

ベーコンさんは哲学者らしくこの世界を正しく観察・理解しようとしていたから、こういった論理を提唱したのだと思うが、誰しもが世界の真の姿を追求しているわけではない。「そんなこと考えて何になるの?」という問いは、至極真っ当であると感じる。

それぞれの洞窟から物事を見ればいいし、そもそも人間はそういう生き物だ。誰しも客観的になど生きられない。

小説だって、作者が個人的洞窟から見た世界の普遍性を描こうとしているものだと思うし、それは芸術全般にも言えることだろう。最初にも書いたが、やはりそういう世界の見方は、良くも悪くも人間らしくあり、AIには真似できないことでもあるのだ。人間から見る世界は、決してフラットではない。物事には色んな側面があるものだ。それはそれぞれの洞窟的普遍性があるからなのだろう。

したがって、それぞれ偏見を持って生きていけばいいと思うし、偏見を持たれても「はいはい、イドラ、イドラ」と開き直ればいい。どうでもいい人にどう思われようが、どうでもいいことなのだ。しかし、本当に大切な人と関係性を築いていくとき、自分の洞窟から一歩出てみることが必要なのだと思う。

この世界は偏見に満ちているし、そういう世界に我々は生きている。

バカボンのパパではないが、「それでいいのだ」ということだ。

 

そう思うのだが、それもまた私の洞窟的発想なのである。