うちゅうのくじら

そりゃあもういいひだったよ

「子どもの宇宙」/河合隼雄-子どもの無限の広がりと深さ-

ことばを聞こうとしているのではない、裸のたましい

 

ひとりひとりの子どもの内面には広大な宇宙が存在することを、大人はつい忘れがちである

 

時々子どもは、親にとって一見不可解な質問をしたり、遊びや行動をすることがある。

それをただ「子どものすることだから」と切り捨てずに、「一体どういう意味があるんだろう?」と考えながら探っていくのが本書である。

それはおそらく天体望遠鏡でのぞいているだけでは理解しえないものだ。ロケットに乗り込み、子どもの宇宙に直接飛び込んで行くことが必要だ、と本書は教えてくれる。そしてそれは、同時に自分自身の宇宙を探索することでもある。

 

ご存じの方も多いと思うが、著者の河合隼雄は心理学者であり、児童文学にも造詣が深い。

私は元々彼の「子どもとファンタジー」シリーズが好きで、その中で紹介されている本は大体読んだ。

「子どもと宇宙」では、子どもと、その周囲を構成する様々な事象とのかかわりを、河合隼雄の症例や児童文学などに照らしあわせ、「子どものもつ宇宙」の深さと広がりを探求していく。

子どものもろくて深い宇宙

元々人は、良いも悪いも、プラスもマイナスも、陰も陽もないスーパーフラットな状態で生まれてきている、と感じる。

そういう子どもの内側から見た我々大人の世界は、不思議にあふれている。我々が当たり前だと思っていることが、当たり前ではないのだ。

子どもたちが世界と関わりを持つとき、実に様々な人や価値観、事象が彼らのまなざしの元にさらされる。

「なんでみんな死んじゃうの?」「なんで大人になると働くの?」「なんで叩いちゃいけないの?」といった子どもの質問に真正面から向き合う時、うまく説明できずに戸惑ってしまう自分がいることに気づく。

その時、ごまかそうと思えば、いくらでもそうできるのが大人だ。

「それがフツウだから」だとか「みんなソウシテルから」とか「そうキマッテいる」など大人はごまかすのが実に上手い。

しかし、子どもは本質を見抜くことが上手い。直観的に、目の前の大人はたいしたことを言っくれていないことをカンで見抜く。

子どもには、きちんと理由を説明したほうがいい、などと教育論をふりかざすつもりはない。ただ、本書はそういう子どもの質問には、その子どもにとって非常に大切なメッセージが含まれていることがある、と教えてくれる。

私にはもうすぐ5歳の息子がいるが、彼から発せられる言葉にはハッとさせられるものがある。そのときの彼のそのまなざしに、なんだか吸いこまれてしまいそうになる。

それは確かに「宇宙」としか表現できないものなのだろう。

そして、そういう「子どもの宇宙」の存在を明らかにし、我々大人が彼らの「宇宙」を破壊することを防ぎたい、それが本書の主な動機だ、と河合隼雄は述べている。

「家族」「秘密」「動物」「時空」「老人」「死」「異性」が本書ではそれぞれのテーマとして書かれているが、子どもが直面するものは限りない。そして、彼らが感じたもの、考えたもの、作り上げた世界を、大人がいつも簡単に破壊できるのもまた事実である。

「子どもはすごい!」「大人はバカだ!」と言いたいわけではない。子どもにも大人と同様、もしくはそれ以上の底知れぬ宇宙がある。しかしながら、その宇宙はまだ不安定であり、もろいものなのだ。

その宇宙の深さと脆さを大人は知っておいたほうがいいのではないか、という問いかけを本書はしているのだ。それはあまりにも無理解に子どもの宇宙を叩き壊してしまう大人が多い、という事実の裏返しでもある。そこにはもちろん私自身も含まれている。そして多くの場合、子どもには自分の宇宙を守るための対抗手段をそれほど持ち合わせてないのだ。

子どもと死

本書は前述した様々な事象と子どもの関わり合いを述べているが、その中から死について書かれた章を紹介したい。

子どもは思いのほか死について考えている。しかし、そのことを大人に語ることは少ない。言ってみても、大人が不愉快な顔をするだけだったり、たいして意味のあることを言ってくれないことを、彼らはよく知っているのだろう。大人が聴く耳を持っているときのみ、子どもたちは死について彼らの考えを語りかけてくる。そのなかには、大人もはっとするような深い知恵が隠されていることもある。

3.4歳の子どもが死について考えていることを、森崎和江が述べている。(中略)

「なぜ死ぬの?」「死んだらどうなるの?」「ママは死ぬこと、怖くないの?」と問いかけてきたと述べている。その問い方も、なにげない遊びのあいだの思い付きではなかった。(中略)

子どもがこれほど真剣に問いかけてくるとき、親はごまかしがきかない。

「あのね、みんなこわいのよ。でも、元気よく生きるの。ママも、あなたと一緒に、元気よく生きていくから。だから、元気で大きくなってね……」

森崎は正直に自分の考えを語りながら、「ことばを聞こうとしているわけではない裸の魂が、感じられて、子を抱きつつその大きさ重さにふるえた」(中略)

子どもは常にちいさいとは限らない。森崎は、まっとうに応えられぬ自分を責め、「ただひたすら、一緒に生きるからゆるしてね」と心から思っていると、そのうち、子がわたしの背中に小さな手を伸ばし、撫でつつ言った。

「泣かないでね、もうこわいこと言わないから」

母の涙を見て、こどもは健気にも母をなぐさめようとしている。大人が本当に心を開いて接したとき、大人と子どもの地位が反転するときがある。

他にも様々な子どもと死にまつわるエピソードや児童文学作品が紹介されているが、このエピソードがとても印象的だったので抜粋させて頂いた。

これが模範解答だ、とドヤ顔をするつもりはない。子どもによって求められるものは違うし、そもそも答えなどない。しかし、本書でも述べられているように、大切なのは子どもはことばのみを聞こうとしているわけではない、ということだろう。

子どもの魂のふるえと親のそれが共鳴するとき、ふたつの宇宙が広がりと深みをもっていくのではないだろうか。

私自身も、息子に死について聞かれたことはあるが、やはり思いつきで言ったのではなく、もうどうしようもなくなってついに言葉として現れた、という感じだった。

息子はぽつりと「死んだらどうなる」とだけ言ったが、やはり私自身が持ち合わせている知識や経験だけでは到底答えられない問いだった。

私は少し考えて、言葉を選びながら「死んだら、体はなくなるけど、みんなの心の中に残る。一緒にいて楽しかったり、嬉しかったりした思い出がね」と答えたが、果たしてそれがよかったのかはわからない。息子は特に反応しなかったからだ。

しかし、大切なのは言葉やその意味ではなく、その問いに真剣に耳を傾けと一緒に考え、悩みぬく、その態度なのだろう。

機会があれば、もう一度息子とゆっくり考えたらいいなと思う。息子の宇宙に飛び立つことで、私自身の宇宙ものぞくことができるかもしれない。それは、かつての私がいた場所なのだ。

息子の宇宙はどんな風に広がっていくのだろう。できれば、その広がりを邪魔することなく、見守っていけたのなら、親としてはこれほど嬉しいことはない。

河合隼雄の著書は、「子どもと悪」や「大人になることのむずかしさ」など他にもおもしろいものがたくさんある。特に「ファンタジーを読む」は私の最も好きな本のうちのひとつである。

自分がみている「この世界」がすなわち唯一の現実ではない。現実は思いのほか多層性を持っている。そういうことを丁寧に教えてくれた。彼の言葉に、幾度救われたことだろう。よければ手に取って読んでもらいたい。