うちゅうのくじら

そりゃあもういいひだったよ

よくわからないけど、ありがたい

それって奇跡じゃん、と思った話

むしょくになってからというもの、よく神社へ足を運ぶようになった。

単純に時間があるということもあるが、岡田斗司夫が彼のYoutubeで「不安や悩みがあるなら、神社に行って罪悪感をリリースしてくるといい」と言っていたからである。さらには「それが最もコスパのいい解消法」であるとも言っていた。

そう言われると初詣以外にあまり神社に足を運んだことがない。

確かにお金もかからないし、割と近所に神社はあったりするものだし、モヤモヤしてるのも嫌だし、じゃあ行ってみるかというノリである。

 

実際に行ってみる

神社は清潔だ。心地よい空気が流れている。そして、静寂がある。

おごそか、という言葉とは少し違う。決して重めかしくはなく、むしろ軽やかに感じる。そして見えない霧のようもので、我々の社会とは隔てられている気がする。神社の中で騒いだり、喧嘩したり、いがみ合ったりする人間は少ない。一種のセーフハウスのようにも思える。

そして、神社に行くと、ただ感じることができる。

「ああ、心地いいなあ」とか「風のおとがしてるなあ」とか「空があおいなあ」と。

 

そうやって何度か通っていると、一体感のようなものを覚えるようになった。

神社に足を踏み入れると、自然と自分もそれらの一員であるような気がしてくるのだ。

こうやって文章を書いていると、その一体感は「自分も自然万物のひとつ」という感覚なのだとなんとなく思えるようになった。人間も自然物である、という至極当たり前の事実だ。

きっと自分の中で、人間は自然界とは隔絶した、超越した存在なのだという無意識での思い込みがあったのだ。人間はただ人間だ。それ以上も以下でもないということだ。自然の生き物はすべて皆死ぬ。そういう存在なのだ。そんなことすらわからずに生きてきたのか私は、ということに気づく。

そういえば、神道は何も教えない。絶対的な神もいなければ、教義もない。ブッダもアラーもキリストもいない。八百万の神々がそこにいる、あそこにいる、ついでにここにもいる、ということだけだ。それが自分にとって、妙に心地よい。

 

よくわからないけど、ありがたい

以前伊勢神宮に行ったとき、ガイドの人に平安の歌人が詠んだとされる歌を教えてもらった。詳細は忘れたので調べてみると、

「何事のおわしますをば知らねどもかたじけなさに涙こぼるる」という歌だった。

「何が祀られているのかわからないけれど、涙が流れるほどありがたい」という意味らしい。よくわからないけど、何だかありがたいなあ、ということだろう。

そのときはただぼんやり聞いていただけだったが、なんとなくその理由がわかるような気がする。

自分を含めた万物が今ここにあるのは「ありがたい」。なぜなら、それは本来「存在し得ない」こと、つまり「在り難い」なのだ。なぜなら、それは人智をはるかに超えたものであるからだ。それがありがたいという言葉であり、その奇跡に対する驚きの涙なのだろう。

それは転じて自分の家族や友人等が存在する不思議さ、その奇跡に対する驚きの感情でもある。

 

この世に生まれて今を生きている、という当たり前だけど奇跡なこと

自分の息子が私を「おとうさん」と呼んでくれること、笑って、食べて、寝て、そして生きていることの「ありがたさ」、それは当たり前のように感じるが、しかし奇跡のようなことなのだ。その奇跡は、自分の存在をはるかに超えたものだ。

なぜなら、彼が生まれてきたこと、生きていること、そして死ぬことは自分でどうにかできるものではないのだから。できるのは、私が死ぬまで彼を見守ることだけだ。

そして、ただ感じて気付くこと、それだけでいいのだろう。至極シンプルである。

それがありがたい、ありがとうという言葉の正体であろう。

息子よ、生まれてきてくれてありがとう。

 



そういえば近所の神社に黒ぶちの野良猫がいて、たまに大きな岩の上でじっとこっちを見つめていることがある。どっしりと落ち着いた感じの猫だ。大きな岩と一体化しているようにも見えてくる。

神社の猫には独特の神々しさがあり、文字通り神が宿っているような雰囲気がある。そして思わず一礼している自分がいる。それに対して猫は何も反応しない。見るともなく見ている、そんな達人の域に達しているような気がして、さらに一礼してしまう自分がいる。

帰り際にもう一度見ると、もはやそこに猫の姿はない。空気のように消えている。

もう一度あの猫に会いたいと思って神社に行くのだが、なかなかその姿を拝見することはできない。

「ありがたい」奇跡の猫様だったのだろうか。もう一度会いたいなあ。