うちゅうのくじら

そりゃあもういいひだったよ

記憶ホタル

最近知ったことなのだが、記憶というのは、どこか特定の神経細胞に保存されるわけではないらしい。

細胞内ではなく、細胞同士の隙間に保持され、何か刺激があったときにそこに電気信号が走り、パッとその記憶が光るのだ。

人間の細胞は常に分解と合成を繰り返している。細胞そのものが分解されても細胞間の関係性が保たれている限り、記憶は保持されるということらしいのだ。

私は今まで記憶というのは、図書館の本棚のように脳内に陳列し、必要なときにひっぱりだされる、もしくは落ちてくるようなイメージであったが、どうやらそういうわけではなさそうだ。

どちらかというと、ホタルのようなイメージだ。暗い細胞の間隙に無数のホタルが漂い、思い出そうとしたときにふっと光る。そして誰もが誰かのホタルとなり、明滅を繰り返しているのだろう。時にそのホタルは、闇が深ければ深いほどその人を支える光となりうるものだ。

人の記憶とは不思議なものである。思い出したり、忘れたりを繰り返す。一部は美化され、もしくは塗りつぶされ、あるいは混じり合い、そして置き換えられる。記憶の中の誰かは、実際とは違っている場合もあるし、時系列だってあやふやになる。

そういう意味では、記憶とは不確かなものでもある。しかし、その不確かなものに人は支えられ生きている側面もある。特に誰かに愛された記憶というのは、生涯その人を支えうるものになる。そして誰かを愛するということも同じなのだろう。それはずっと、その後もその人の中に残り続けるものなのだ。自分が死んだ後もそうなのだとしたら、相対的に生きるということに意味を見出せるのではないだろうか。

人は絶対に死ぬ。しかし、記憶がある限り、人は完全に失われない。ホタルとなって、記憶の水辺に漂い続ける。

そういうことを考えると、記憶は死に対する人間の抗いなのだと思う。

とても儚い抗いであるが、やはりそれはその儚さゆえとても美しいと思うのだ。

そんな風に思うのだが、どうなのだろうか。