うちゅうのくじら

そりゃあもういいひだったよ

男女間の友情

大学生のころ

大学のころディスカッションの授業があり、そのときのテーマが「男女間に友情はありうるか?」だった。

私は「ありえない」という立場で持論を展開したのだが、同じサークルだった女の子から「じゃあうちらは友達ちゃうねんな」と言われ「うっ」となったことがある。あくまで一般論を話していたつもりだったが、個人の問題として掘り下げたときに矛盾があるように感じて、それ以上何も言えなくなってしまったのだ。そして、その子とはせっかく仲良くなりかけていた矢先だったのだが、それ以来少し疎遠になってしまったのである。

現在は多様性の観点から、こういう議題は扱われにくいのかもしれない。これはあくまで、異性愛者であることが前提条件なのである。しかし、友情とは、恋愛とは、性とは何かということを考えるには良いテーマであった気がする。

友情とは何か

男女間の友情の前に、そもそも友情とは何なのか。

正直よくわからない。「なぜあの人と友達なの?」と聞かれても、スラスラと言える人は少ないのではないだろうか。

「なんとなく馬があうから」「気が楽だから」「趣味があうから」など、どことなく漠然としたものであるように感じる。

しかし、ユング派の心理学者アドルフ・グッゲンビュールがこう言っている。

「友人とは、夜中の12時に車のトランクに死体を入れて持ってきたとき、何も言わず話を聞いてくれる人だ」

けっこうな極論な気がするが、極端な意見というのは本質を突いていることが多い。「何も言わずに話を聞く」ところがポイントなのだろう。

まずは拒否したり、怒ったり、警察に電話するのではなく「話を聞く」ことができるのは、一定の信頼関係がないと、まあ無理であろう。「こいつのことだから、何か事情があるに違いない」と考え、そして自分のことのように一緒に悩んでくれる人が友人であり、そういう関係性が友情なのであろうか。

またそれに加えて「感情の交流」があるというものキーワードではないだろうか。一緒に笑ったり泣いたり怒ったりと、感情のベクトルがある程度一致しているのも友人というものであろう。

同性同士の友情をテーマにした小説

「女同士の友情は打算的だ」とよく聞くが、では男同士の友情はどうだろう。

夏目漱石の「こころ」や武者小路実篤の「友情」、少し傾向は異なるが村上春樹の「ノルウェイの森」は、友人関係にある男同士が同じ女性に恋愛感情を抱き、そこに葛藤が生まれるということを作中で扱っている。特に「こころ」と「友情」では友情を守ろうとするが、恋愛感情に抗えなくなっていく様が描かれている。「ノルウェイの森」は、すでに他界した親友と同じ女性を愛した主人公が葛藤する姿が丁寧に表現されている。もちろん「ノルウェイの森」には別のテーマがあるが、長くなるのでここでは書かないでおくとする。

ともあれ強い友情で結ばれていても、恋愛感情には抗えないことは現実世界でもしばしば起こることだ。時にそれまでの関係性が崩れ去ることもある。数十年の付き合いがある友達が、恋人ができたとたん疎遠になる、なんて話はわりと聞く。とすれば、例外はあるだろうが、我々にとって恋愛>友情という図式が成立する。一般的に恋愛は友情を凌駕するものではないだろうか。

男女間の恋愛

そういうことを踏まえると、男女間の友情は少し特異である。

なぜなら異性愛者であれば、恋愛に発展する可能性があるし、セックスというものが介在するからだ。恋愛に発展するまでは友情なのではないかというと、友情である気もするし、恋愛に発展する気配をはらんでいるという点で純粋な友情ではない気もする。そもそも純粋な友情とは何だろう。

よくわからくなってきたが、アドルフ・グッゲンビュールさんの定義に基づいて話を進めたい。つまり友人とは、死体を担いでやってきても黙って話を聞いてくれる人である。文章にすると、何かこうとてつもないパワーがある。

それはさておき、「お前とは(あなたとは)ねーわwww」と草を生やしてしまうくらい互いに性的魅力を感じない年頃の男女がいるとしよう。そして、双方全裸で同じベッドに1カ月くらい寝続けたとしよう。その間、何も起こらないとは言い切れないのが、男女というものだろう。「はずみ」という事象が、男女間には常に存在しているのである。

結局のところ、雄であること、雌であることから人間は逃れられないし、それらの吸引は強力である。男女の友情を考えるとき、男性器と女性器の関係性からは逃れられない。人間も所詮は動物なのだ。

しかし「セックスフレンド」という言葉があるように、肉体関係はあるが、恋愛感情はない、という関係性もある。いわゆる「ゲーム」としてのセックスである。その場合それは友情なのかというと、それも違う気がする。性衝動を解消するための相手が死体を担いでやってきたら、大抵はしっぽを巻いて逃げるのではないだろうか。もちろん、例外もあるだろうが。

だから男女間の友情なんて幻想だ

とも言えない。男女間でも純粋な友情も存在するだろう。しかし、男女間には性の問題が介在せざるを得ないし、それゆえ特異的である。セックスを通してしか分かり合ないこともあるだろう。それは一体どのようなことなのか、掘り下げていっても面白いかもしれない。

ところで、かのユングは「性は天国から地獄まで存在する」と言っている。

「性は精神の交わりである」と言えば高尚に聞こえるし、「性欲の解消」と言ってしまえば、下劣に響く。性とは解釈次第で色んな側面があるものだ。もちろんそのどちらの性質を持つものでもある。

理性や規律を重んじるとき、性衝動はそれらを妨げる邪魔者として扱われるし、人間本来の姿や自然回帰というものを加味すると、それは人の持つ根本的な性質として評価されうるものだ。キリスト教などは性に対して厳格であるし、ヒッピーカルチャーなどは、性への寛容さがある。どちらが良い悪いの話ではなく、時代や文化や宗教、立場などの側面からこういうのは変わりうるものだろう。

このように性ひとつとっても多様な解釈ができるものだし、男女間の友情にはそういうことが付きまとう。つまり同性間の友情とは、根本的には性質が異なるものなのであろう。

ノルウェイの森の話の続き

ネタバレになるが、村上春樹の「ノルウェイの森」では、主人公はそれまで親友の恋人であった直子とある夜、肉体関係を持つ。そのことがきっかけで主人公は強い恋愛感情に突き動かされていくのだが、その一方で直子は悩み苦しむ。なぜなら、直子は主人公のことを愛してはいなかったからだ。死んでいった主人公の親友を想いながら、主人公と関係を持ったことで、直子は苦しめられ、深い闇へと落ちていく。そして、主人公自身も親友の恋人だった直子を愛したこと、そして直子が自分を愛してはいないという事実に苦しむ。死者と生者のはざまで強い葛藤がある。しかし、この作品の中で主人公と直子の交流は肉体だけではない。お互い大切な存在を失ったもの同士の「こころの交流」がなされるのだ。その過程で、お互いがお互いを癒していくのだ。結果、主人公は生きることを選択し、一方で直子は死者の世界へ旅立ってしまう。主人公は唯一心を許せた親友と、自分が愛した親友の恋人を失うのだ。主人公と直子は一方通行ではあるにせよ、恋愛の要素をはらんでいたが、こころを通わせた。それはある種の友情と呼べるものなのかもしれない。それは親友の存在を通して、かろうじてこの世界とつながっていたもの同士の交流でもある。他の誰かではなされなかったことなのだ。

この作品を読むと、男女間の友情とは、かなり深い所でこころの交流がなされた結果であると感じる。それは肉体を通そうが通さまいが、友情関係であると言える気がする。

タイムスリップして

大学のことに戻って、あの女の子にこういうことを説明したら、わかってくれただろうか。「男女間でも深いこころの交流がなされれば、それは友情なのだ。しかし、一般的にそれが起こる可能性が同性間と比べて起こりにくい。なぜなら男女間には肉体が介在することがあり云々」と。おそらく「はぁ?」と言われて終わる気がする。

確かそのときは「お互い友達と思っていれば、男女間の友情は成立する」という結論だった気がする。なるほど、シンプルでいい答えだ。

「蜂蜜パイ」

そういえば村上春樹の「蜂蜜パイ」という短編があるのだが、「ノルウェイの森」と同じような構造である。主人公と親友、その恋人との友情関係があり、やがて親友の恋人と恋愛感情へと発展する。どちらも親友が愛した女性を愛する話である。ただ「ノルウェイの森」とは結末が違う。

個人的には物語の終わり方は、こちらの方が好みである。

村上春樹自身、やはりこういうことを体験したのだろうか。作家が繰り返しひとつのテーマを描くというのはよくあることだが、それには強い思い入れがあるものだろう。

いずれにせよ「ノルウェイの森」のような経験を青春時代にしたのであれば、それはとても強烈なものだったに違いない。

私の青春時代はそれに比べると穏やかではあったが、しかしそれなりにドラマ性に富んでいたようにも思う。もう二度と戻ってこないあの時代のことを考えると、さみしくもあるがそれらの経験が今の自分を支えているのもまた事実なのだ。

中身は今のままで大学時代に戻れたらさぞかし面白いのになあ、と時々妄想する。

あの女の子と友情は築けたのだろうか。いや、無理だった気がする。結局のところ「あわよくば」というやましい心が私の心に潜んでいたからだ。男子大学生とは、所詮そういう生き物である。そう考えると、男女間の友情が成立するには、色んな条件が重ならないと難しいし、しかもそれは一瞬で崩れ去ってしまう危険性をはらんでいる。

しかし、そういうのが人間の面白いところでもあるのだろう、と最近思う。