うちゅうのくじら

そりゃあもういいひだったよ

パースの思い出part1

オーストラリアでの日々

8歳からの3年間と15歳からの1年半、西オーストラリアのパース市で過ごしたことがある。

母親が父親と離婚したとき、かなりの額の慰謝料をもらったそうで、母はそのお金で長年の夢だった長期留学を実現させた。子連れの留学である。

8歳の子を連れての海外留学は当時の母にとって大決断だっただろうが、結果として得難い経験を積ませてもらったと思っている。今でも鮮明に思い出せることがたくさんある。オーストラリアでの思い出はたくさんありすぎて、何を書くべきか迷ってしまうくらいだ。それらのほとんどは、心象風景としても私の記憶の回路に漂っている。

こうやって「よしあのときのことを書こう」と思っただけで、たくさんあふれてくる記憶があり、それにはしかるべきスイッチのようなものが必要なのだろう。

ブログを書き始めた理由のひとつとして、過去の記憶の整理をしたいということもあった。ぼんやりと思い出すだけだった自分の記憶を、文章として書き出すことで当時思っていたことや感じたこと、そして当時私の周りにいてくれた人たちのことをより深く理解できる気がしたからだ。

そうやって記憶を井戸のように掘っていくことで、新たな水脈にたどり着けるかもしれない。私個人の記憶など興味がない人が多いだろうが、記憶というのは誰もが持っているものであり、今の自分を支えてくれるものでもある。自分自身が大切にしている記憶を思い出すきっかけになれば幸いである。そしてこれは何度かにわけて書くことになるだろう。オーストラリアでの記憶は、おそらく私にとって、とても重要なものなのだ。

ラッキーな出発

オーストラリアなど当時の私は知る由もなく、母から「地球の歩き方・オーストラリア」という本を渡されて何らかの説明を受けたがほとんど記憶にない。「ああどこか遠いところに行くんだな」と思った覚えもないし、「お友達と別れるの? 嫌だ!」とか言った記憶もない。気づいたらリュックを背負って日本の空港にいた。

チケットをチェックするゲートで急に母があたふたしはじめた。何かを探しているようだった。そのとき後ろにいたおじさんが2枚の紙をすっと差し出した。チケットだった。母が落としていたのだ。今思えば初っ端から不安しかない旅立ちであるが、まあ母はそういう人間なのだ。おっちょこちょいだが、なぜか運よく周りが助けてくれるのだ。そのとき母が「ラッキ~」とつぶやいたことまで私はしっかりと覚えている。「ラッキ~」じゃねぇわ。

そこからオーストラリアに到着し、初日に泊まったモーテルでの記憶に飛ぶ。

そのモーテルにはやたらうす暗いゲームルームがあり、日本の「高橋名人の冒険島」というアーケードゲームが置いてあった。それまで見たこともない20セント硬貨をもらって、ゲーム機に入れて遊んだことも、レストランのようなところでタイ米のカレーを食べて「なんだこれ」と思ったことを覚えている。

サンセットルーム

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最初に住んだところはコテスローという美しいビーチが近くにある町で、私はそこからバスで日本人学校に通い、母はカーテン大学というところに通った。

どういう経過かは覚えていないが、気付けばアパートに移っていた。「サンセットルームがあるんよ」と母がうれしそうに言っていた。

海に沈む夕日が眺められる部屋で、そこが私の遊び場になった。

強烈なルビー色の夕焼けが異国の町をそめていく光景を母はよく眺めていた。当時の私はそういう情緒的なことには興味がなく、買ってもらった「レゴの海賊船」セットで熱心に遊んでいた。ちなみにそのレゴセットのいくつかのパーツは今でも残っており、息子が引き継いで遊んでいる。

絵はがきみたいなビーチ

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そこから歩いて5分程度のところにビーチがあり、よく母と散歩したものだ。絵はがきの中を歩いているようなビーチである。砂は白いし、海はアクアマリンだ。

それはそうと、ビーチだけでなく町中やスーパーでも素足で歩いている人がたくさんいて、不思議に思ったことを覚えている。

思えばそれまで住んでいた環境とはずいぶんと変わったものだったが、当時の私は割とすんなり順応していたようだ。あくまで私の記憶ではだが、帰りたいと言ったこともないし、戸惑った覚えもない。母の心情はよくわからない。おそらく不安もあっただろうが、生来の楽天家でもあるから「ま、なんとかなるっしょ」程度に思っていたのかもしれない。実際なんとかなったのだが。

ともかく親子ふたりが異国の地でまがりなりにも数年間楽しく暮らせたことは色んな人のサポートもあっただろうし、もちろん母自身の努力や苦労もあったのだろう。私の中で総体的に良い思い出としてインプットされているのは、そういうことなのだろう。とてもありがたいことである。とはいえ、色んな事件めいたことも、ショックだったことも、もちろんあった。しかしそれがネガティブな思い出として残っているかといえば、そうでもない気がする。

ともかくオーストラリアでのことは順を追いながら、ゆっくりと書いていきたい。(続く)