うちゅうのくじら

そりゃあもういいひだったよ

台風のブックカバー

一人で過ごす台風の日

暴風ポメラニアン

 

昨日朝方から暴風が本格化し、窓ガラスが独特のリズムでなり始めたので、午前5時過ぎに目が覚めた。頭はまだぼんやりしている。

私のハイツは築古なので大雨になると、窓のサッシの隙間から雨水が侵入してくる。

台風の前日に、タオルを筒状に丸めたものをすべての窓サッシにぎゅうぎゅうに詰めておいたので、浸水の心配はないのだが、その湿り具合を確認するついでに窓の外を眺めた。

白いビニール袋やら葉っぱが風に舞っている。雨はまだ本降りではないように見えた。

その中を白い犬を連れたおじいさんが歩いている。おじいさんのシャツと犬の毛が風に吹かれて逆立っている。習慣というのはすごい。

確か数年前の大型台風では、ベビーカーが宙を舞っていた。あの台風に比べたらまだマシだろう。サッシのタオルもあまり湿っていない。さて、こういう日は内職的な作業をするに限ると思いながら窓から離れた。

ブックカバーという名の物理バリアー

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以前から本に保護用のブックカバーを付けたいなあと思い、透明なカバーを買っておいたのだが、2、3冊つけたところでめんどくさくなってほったらかしにしていた。

元々本なんかボロボロなほうが価値があると思っていた。実際読み終わった本は例外なく多少の差こそあれボロボロになった。そしてそのほうが「味」があると感じていたのだが、いつのころからか息子にも残したいと思うようになった。こういうのを年を取るというのだろうか。そういう経緯でカバーを買うに至った。

ともあれ、今こそ再開するべきだろう、と思い立ち顔を洗って髭の伸び具合を確認し、そしてたっぷりと珈琲をポット淹れた。窓の外では、ちょうど暴風域に入り始めたようだ。

本は手渡されるものではなく、手を伸ばすもの

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私は離婚しているが、子供とは頻繁に会っている。子供が「お父さんに会いたい」と言ってくれている間は、できるだけ一緒にいたいと思っている。そういう関係性の中で、「この本息子も読むかなあ」と思うことが多くなった。

実際のところ、自分も母や父の漫画や小説なんかを読んで育ったし、そういうのは今でも割と印象に残っているものだ。司馬遼太郎とか五木寛之とかカミュとか手塚治虫とかポールギャリコとかミュハエルエンデがそうである。絵本もそうだ。母がたくさん買ってくれたから、今も絵本をめくる習慣があるし、それらは私の人生に深みを与えてくれるものでもある。

子は大なり小なり親の文化的側面の影響を受けるものだ。とはいえ、子供は「これを読め」と言われて読むものでもないだろう。子供にしてみたら余計なお世話というものなのだ。本棚に陳列している本に子供自ら手を伸ばす瞬間、きっとそこに何らかの化学反応があるはずだ。その反応が数十年先にやってくることもある。しかし夢中になって読むということが大切なのだろう。そういう経験はこの世界で生きていく上で得難いものとなる。

そういうことを考えながら、かたっぱしからカバーをかけていく。

数十回繰り返すとコツのようなものがつかめてきた。息子が大きくなってこの本を読んだらどう思うか、などと考えながら作業にのめりこんでいると、いつのまにか風は弱まり、台風は過ぎ去ろうとしていた。

さようなら。

翌日サッシの間に挟まり続けたタオルたちを干しているとき、セミの声が聞こえてきた。雲の切れ間の青い空は、いつも通りの夏のそのものであった。自然というのはすごい。

また暑い日が続くんだなあ。