うちゅうのくじら

そりゃあもういいひだったよ

ひげとむしょくの親和性

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「鼠」の髭剃り

村上春樹の「羊をめぐる冒険」という小説に、「鼠」という親友を追って人里離れた山小屋に一人たどり着いた主人公が、もぬけの殻になった小屋で「鼠」の生活の匂いを感じるシーンがある。「鼠」は几帳面な性格のようで、小屋の中はきちんと整理されており、台所にも鏡にもシミひとつない。

そこで主人公はソファで煙草を吸いながらこう考える。

『僕は鼠が家中の家財道具を整理したり、便所のタイルのめじを真白にしたり、誰に会うわけでもないのにシャツにアイロンをかけたり髭を剃ったりしていた理由がなんとなくわかった。ここでは絶えず体を動かしていないと時間に対するまともな感覚がなくなってしまうのだ(文庫本下巻P161抜粋)』

 

社会的山小屋

羊をめぐる冒険」を初めて読んだのは大学生のときで、それからひげを剃るたびに、このくだりを思い出してしまう。そうやって私はひげを剃り続けてきた。

「鼠」のように、たったひとりで社会から隔絶されて暮らしていると、ふいに何かに吸いこまれそうになる。そういう感覚は、むしょくになってからしばらくあった。私は割と街中に住んでいるが、離職後しばらくは「社会的山小屋」のような場所で膝小僧を抱えていた。だから「鼠」が誰に会うわけでもないのにひげを剃る理由が、なんとなくわかるような気がしたのだ。

彼を見習い、離職後もひげを剃ってきたが、むしょくになって2カ月目、髭を剃ることやめた。

至極当たり前のことであるが、私が髭を剃ろうが放置しようが世界は何も変わらない。

「ひじき」と言いながら、私のひげを引き抜く息子の遊びが増えたくらいである。

最初は遠慮がちに顔を出してきひげは、しばらく剃られないことがわかると一気に伸びてきた。

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ひげの哲学・むしょくの哲学

「どんな髭剃りにも哲学がある」とサマセット・モームが(「雨」「月と六ペンス」などの小説家)言っている。

どのようなことでも続けることで何かを見出し学ぶことはできる、ということなのだろうが、そのためにはその行為を注視し続ける姿勢が大切なのだろう。習い事でも読書でも、子供と遊ぶことでも、床みがきでも、そしてむしょく生活でも、日々観察していると自分なりの「美学」に気づく瞬間がある。こだわりと言ってもいいのかもしれない。しかし、何も考えずにただこなすだけでは、何かを感じ取り、意味を見出すことは少ない。

もちろん全ての行為に対して、そんなことをする必要はない。自分が何かしらの愛着を持っていることや、気になる物事に対してそういった姿勢をとることで気付くこともある。それはある程度継続し、かつ観察し続けないとわからないことだ。

そして髭を剃る哲学があるのなら、伸ばす哲学もあってしかりだし、働く哲学があれば、むしょくの哲学もあるずだ。

それには前述した姿勢が大切なのだ。つまり、ひげで言えば「伸びてきた」のではなく、「伸ばしている」というスタンスだ。それには伸びてきたひげと、ひげの自分を注意深く観察する必要がある。

「どんなむしょくにも哲学がある」

こう書くと拍子抜けするが、つまりそういうことだ。

朝、鏡の前に立ち「むしょくらしくなってきたなあ、うへへ」と感傷に浸りながらボサボサひげを撫でまわすのが日課になっている。

そう、むしょくとひげには親和性があるのだ。むしょくはひげがあったほうが「らしい」のだ。そしてそこから何が生まれるだろう。何も生まれない気もするが、何事もやってみないとわからない。

しかしこれは堕落なのだろうか、それとも順応なのであろうのか、それとも…。

 

村上春樹の小説

私は読書が割と好きだったが、しばらくの間文字を追うことがしんどくなってきたため本を読んでなかった。

最近また本を読むようになってきたが、「積み本」よりもなじみのある本を読んでしまう。そのひとつが村上春樹で、どういうわけか読みやすい。私見では村上春樹の小説は、扱うテーマなど難解であると思うのだが、特に深く考えなくても読める文章のリズムだからなのかもしれない。そういうタイプの小説がいくつかある。

羊をめぐる冒険」はおそらく4回目になるが、なんども手を伸ばしてしまう。

気に入った本を何度も読んでいると、読む年齢やそのときの立場や状況によって感じ方が違ってくるのがわかる。「鼠」の気持ちに少し触れれるようになってきたのも、そういうことなのだろう。