- 誰しもこういう世界に生きている
- あらすじ
- 背景
- おすすめPOINTS★
- 記憶のふしぎさ
- おじいさんの内界の旅
- うみといえが象徴するもの
- おじいさんのまいにち
- 次第にちいさくなっていく家
- 主題は何か
- おとな向け? いや、こどもにこそ読んでほしい。
- いっしょにえほんの世界にとびこむ
- 短編映画版つみきのいえ(YouTube)
- Amazonリンク
誰しもこういう世界に生きている
人は何度でも大切な人に出会うことができる。
なぜなら、人には記憶があるから。
でもその記憶もやがていつかは沈んでいく。
なぜなら、わたしたちはそういう世界に生きているから。
私が最も好きなえほんのひとつ。
海面上昇する世界。どうしようもない不条理の中、淡々と生きる一人のおじいさん。しかし、彼に悲壮感はさほど漂っていない。
それは、なぜだろう?
おじいさんが記憶の海をもぐっていくとき、彼の日常の根底にある大切な記憶に「再び出会う」。そこに答えがある。
おそらく誰しもが、このおじいさんのような世界で生きている。せりあがってくる日常に追われ、否が応でも積み上げていかねばならない。そうしなければ、生きていけないからだ。
でも、その下にはその人を支える記憶たちが、ひっそりと積みあがっている。人生とは積み重ねの連続なのだろう。
そして、我々は時にその積み上げた記憶の海にもぐり、のぞきこむこともできる生き物だ。それは脳が発達した人類の特権でもある。そのことは、我々の人生にどのようなことをもたらしてくれるのだろう?
ふとしたことがきっけで、おじいさんは自分の人生を追体験する。それはきっとおじいさん自身も気づいていなかった大切な記憶。
名作とは、そういう当たり前のことにそっと光を当て、ひそかに耳打ちしてくれるのものである。本作を読んだあと、そう感じる人は多いのではないだろうか。
あらすじ
おじいさんは、たったひとりで、うみの上の少し変わったまちに住んでいます。
どんなまちかというと、うみのみずが、どんどんと上にあがってきてしまう、そんなまちなのです。
そこでおじいさんは、つみきのように、家をうえへうえへと建て、つみあげていきます。
とっても大変なまちですが、おじいさんはここに住むのをぜったいにやめません。
おじいさんは、つりをしたり、パンのための小麦をやねで育てたり、きんじょの人とチェスをしたり、こどもたちのてがみを読んだりと、まいにち楽しくくらしているようです。
ある日、おじいさんはたいせつな大工どうぐを、したの家まで落としてしまいます。
「やれやれ」とおじいさんはため息をつくと、せんすいふくを着て、したの家までもぐることにしました。
そこでおじいさんが見たのは、かつておばあさんとくらしていたいえでした。
おじいさんは、もっとしたのいえまでもぐってみたくなりました。
背景
本作は2008年発表の短編アニメーション映画が絵本化されたもので、映画は日本映画として初のアカデミー短編アニメ賞を受賞している。また国内外の14の映画賞も受賞している。監督は加藤久仁生。脚本は平田研也。
加藤が描いた本作の絵を平田に見せたとき、その世界観に惹かれた平田がストーリーを書き、制作が進められていった。
平田より「環境問題をもっとアピールするべき」というアドバイスもあったが、加藤は「どんな環境でも人は生きていかねばならない」というイメージを貫いた。
おすすめPOINTS★
- 絵のタッチがほんわかしていて心地いい。
- おじいさんがすごく可愛い(おばあさんも)
- 海にしずみゆくまちと、積みあがっていく家という世界観が面白い。
- そんな世界に生きるおじいさんの毎日が楽しい。
- 読後感がほっこりして、でも少しせつない。
- 子供と読むと、その後お風呂の中で、つみきのいえごっこがはじまる。
記憶のふしぎさ
人は記憶がないと自我が保てない。
過去-現在という連続性がないと、「わたしはだあれ? ここはどこ?」状態になるし、未来のことも、それらがベースにないと基本的には成立しない。
普段は意識することはないが、人は自身の記憶があってはじめて精神活動が可能になるものだ。
記憶にはいろんな役割や種類があるが、その人の根幹をなす「コアメモリー」のようなものがあると感じる。
いいことも、わるいことも含めて人間の記憶は文字通り海の中に沈んでいる。
そして、それは本人自身も気付いていないこともある。
ふとしたことをきっかけに、記憶が呼び覚まされることは、多くの人が経験したことだろう。物や匂い、情景、言葉、音楽などで懐かしい感覚が戻ることがある。
それは必ずしもいい記憶であるとは限らない。負の感情に紐づいていることも多い。しかしながら、それはかつての自分の感情が、大きく揺さぶられたという証拠でもある。
自分の記憶に自分の意志は、必ずしも介在していない。勝手に記憶させられるものだ。このことが、脳というものが我々のコントロール下にはないことがわかる。
多くの人は「なんでアイツのこと(あんなこと)いつまでも覚えてるんだろうーあーヤダヤダ」的な経験があると思う。いわゆる「オートセーブ」のようなものである。
何かしらの要因が、我々に記憶をさせるのだとすれば、そこに意味を見出すことができるのではないだろうか。
自分が覚えていることは、どんなことだろう? そして、それはなぜ?
そう問いかけ考えることで、いい記憶にせよ、嫌な記憶にせよ、そこから我々は学び、受け入れることができる。
おじいさんの内界の旅
おじいさんがもぐるとき、それはおじいさん自身の内界への旅になる。
ひとつひとつのいえを訪れるたび、おじいさんの中の大切な記憶が呼び戻されていく。
あの日に感じた感情を、当事者として、また傍観者として追憶する。
多くの場合、それは家族に結びついている。
おじいさんにとって、家族というのがどういう存在たったのか、またどういう人生を歩んできたのか。おじいさんといっしょに潜っていくことができるのだ。
うみといえが象徴するもの
自分の意志では、どうしようもない世界におじいさんは生きている。
海は上昇することをやめない。やがて、まちやおじいさんは海に飲み込まれていくだろう。
海が象徴しているのは、止まることのない「時の流れ」であり、すなわちそれは「死」であると思う。
それらに対して、人ができることは家を積み上げていくことだけだ。しかし、下を見れば積みあがっているものがある。多少いびつでも、それがその人の人生である。
海が時間を象徴しているのであれば、家は「記憶」を象徴している。
海が流動で動的で、大きな自然の一部である。それに対し、家は不動で静的で、小さな個人のものである。
時間は不可逆的であるが、記憶は可逆的である。両者は対立しているが、家は海に飲み込まれていく運命にある。つまり、我々はいつか死に、記憶も飲み込まれてしまう。
しかし、家は不動のものであり、海の底で存在し続けることができる。
おじいさんがいなくなっても、おじいさんのつみきのいえは、誰かの記憶に引き継がれることもある。
海は誰のものでもない。大きな自然の一部であり、つまりそれは他の誰かの一部でもあるのだから。
おじいさんのまいにち
そんなまちでも、おじいさんは楽しく毎日を過ごしている(絵本版では、そのことがより強調されて描かれている)
なぜか。それはおじいさんが、その世界を選択したからだ。
誰かに言われて嫌々住んでいるのではないからだ。おじいさんが今まで積み上げてきた大切なものがあり、それは本人が気付かないうちに、その人を支える土台となっているものだからだ。
だからこそ、おじいさんは、この世界のいろんなことを受け入れて暮らすことができる。好むと好まざるにかかわらず、人は生きていかねばならない。時にそれは不条理なこともある。しかし、それらを受け入れてこそ、ふとした瞬間に積み上げてきたものを感じることができるのではないだろうか。
「けれでも おじいさんは ぜったいに このいえに すむのを やめませんでした」
そう考えると、この一文は色々と考えるものがある。
次第にちいさくなっていく家
家が記憶を象徴しているとすると、次第に積み上げられていく家がだんだんと小さくなっていく理由がわかる。
家の大きさは記憶の容量を表しており、時の流れと共にそれは小さくなっていくからだ。
しかし、おじいさんが一番下の最初の家にたどりついたとき、その家はとても小さいものだった。
おばあさんと結婚したときに、ふたりで建てた家だ。そこからふたりの暮らしが始まったのだ。
そこからふたりの家は次第に大きく、上にむかって積み上げられていく。
このことを考えると、家の大きさは記憶の容量ではなく、密度を表しているのだろうか。
ふたりで暮らし始め、子供が生まれ、育ち、巣立つ。記憶は徐々に形作られていく。
おばあさんが天国へ先だったあと、家はさらにちいさくなっていく。
主題は何か
本作のテーマは「環境破壊への警告」になるのだろうか?
いや、そう言い切るには、なんとなく違和感がある。
作者が言っているのは「どんな環境でも人は生きていかねばならない」ということであるが、本作では、「人間ではどうしようもない不条理」としての海面上昇と「それを受け入れて生活をおくる人」としてのおじいさんの淡々とした生活が描かれている。
とすれば、主題はどのような状況でも生きていく「人の強さ」、そしてそれは抵抗することではなく「受け入れる」ことが根幹にある、ということなのだろうか。
私は「記憶の不思議さ」、そして「それに支えられて人は生きている」ということも感じた。
だからこそ最期のシーン、おじいさんは家のすきまに咲いたタンポポを見て、にっこりと笑うのだろう。ものすごく可愛い笑顔である。
おとな向け? いや、こどもにこそ読んでほしい。
色々と理屈をこねくりまわしてきたが、そんなことはどうでもよかったりする。ここまで書いてきて何だが、こういうことをそれらしく言語化することに虚しさも感じる。無粋、というやつだ。
物語とは、読む人それぞれが自由に感じればいいものだ。それは、こどもにも当てはまる。
「このえほんは大人向き」「こどもにはまだ早い」などと聞くが、何を基準にそう決めているか正直よくわからない。
子供はどんなものに対してもアンテナを向けるものだし、大人が思いもよらないところから学ぶものだと感じる。表現や言葉の難しいところは、親がかみくだいて、一緒に読めばいい。絵本を読んで大けがをするわけでもないし、大人がこどもを勝手に規定することもないように思う。それは非常にもったいないことである。
物語の世界により没頭できる能力は、こどものほうが数段優れている。
いっしょにえほんの世界にとびこむ
この絵本のテーマを理解することは難しいかもしれない。でもテーマなんてわからなくてもいいし、こども自身がテーマのようなものを直観的に読み取ることもある。
それは作者のテーマとは乖離しててもいい。こども自らが見つけたもの、感じたものがが一番大切なのだ。そして、それを親が共有することも重要である気がする。親が感じたことも、こどもに伝えてみるのだ。それには親が一緒に読むことがいいのではないだろうか。
絵本は読んで聞かせるだけではもったいない。一緒に世界に飛び込むものだ。
「海の上に家がつみきみたいに積みあがっている」
それだけでもう面白い。
「なんで、うみがどんどんあがってくるの?」
「なんで、おじいさんはいえを建てるの?」
「なんかいだてなの?」
「なんで、いえのしたにもぐるとおばあさんがいるの?」
こどもの質問攻めにあうとき、親の真価が問われる。
時に質問は本質をみごとについていることもある。
そしてうまく答えられないでいると、「なーんだ」みたいな顔をされる。
同時に親の痛いところもついてくるわけだ。
短編映画版つみきのいえ(YouTube)
本作は2008年発表の短編アニメーション映画が絵本化されたもので、映画は日本映画として初のアカデミー短編アニメ賞を受賞している。絵本のほうがおじいさんの「今の生活」により焦点を当てている気がする。わたしは絵本版のほうが好きだ。
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