うちゅうのくじら

そりゃあもういいひだったよ

陽だまりの猫が教えてくれること

陽だまりのにゃんこ先生に学ぶ

猫は心地よい場所を見つけるのが得意である。

夏は廊下の風通しのよい場所で、ぐたっと寝そべっているし、冬はこたつや陽だまりの中で気持ちよさそうに毛づくろいをしている。

私は陽だまりの中で猫が丸くなっているのが好きで、そういった場面に出くわすと、一緒に横になったものである。

猫の毛に陽が差すと黄金色に透けて輝くので、そこに顔をうずめて、フガフガするのも好きだった。自分だけの黄金色の草原なのである。

気持ちよく寝ていた猫にとっては、自分より図体のでかいやつが腹に顔をうずめてくるものだから、大変迷惑であっただろうが、猫は「ん?」と顔をもたげた後「はいはい、お好きにどうぞ」という感じで再びごろんと寝そべることが多かった。

猫の度量の大きさは大変なものがある。

信頼関係が築けてさえいれば、大抵の人間のわがままには付き合ってくれるものだ。

猫瞑想

そうやって猫と一緒にじっと寝そべって、ゆっくりと上下するお腹を眺めていると、猫のリズムにだんだんと同調していくことがある。

猫の静かな呼吸に合わせていると、自然と一体化していくのを感じる。

猫のリズムは人間のものとは違う。寝たいときに寝るし、食べたいときに食べるし、遊びたいときに遊ぶ。

気のままに生きている、そんなリズムがだんだんと自分の中に染みこんできて、大体のことはどうでもよくなってくる。

何時までに何をして、明日は何々を~みたいなことが、いつのまにか猫の体温に溶かされてしまって、「なんだか心地いいなあ」という感覚だけが残っていることに気づく。

これは瞑想に近いものがあるように感じる。要は「今の」感覚に心を置くことが大事なのだろう。そう考えると、猫は瞑想の達人なのだ。

猫哲学

ふと目を開けると、猫が顔をあげて何やら思慮深そうに遠くを目つめていることもある。

おそらく何も考えていないのだろうが、それでも我々がまだ達していない境地にたどり着いているような、そんな哲学的かつ宇宙的な面持ちをするものだから時に時間を忘れて観察してしまう。

そういう猫の横顔を眺めていると、「何も考えない事」が「色々考える事」ではたどりつけない深みのような気もしてくる。

自分なりに「考え抜いて」たどり着いた答えより、「直観のままに」動いたことのほうが自分らしくいれることがあったりする。

そう思うと、我々人間の思考力であったり、導き出した答えなどほんの些細なことにすぎない気もしてくるから不思議だ。

それでも考える事をやめれないのが人間というものなのだろうか。

猫消失

そんなとりとめもないことを考えていると、猫はおもむろに立ち上がって伸びをして、ぷいっとどこかに行ってしまう。

トイレなのか、水分補給か、はたまた第二の昼寝場所へ向かうのか、答えは猫しか知らない。

残された私はしばらくぼうっとする。猫リズムの心地よい余韻が、霧ようにうっすら取り巻いている。夢と現実の狭間でさまよっているのだ。

やがて猫の後を追いかけるように、自分もよいしょと立ち上がり、人間世界にまた戻っていくことになる。

 

猫先生

このような経験をすると、我々が猫を「飼っている」のか猫が我々を「飼っている」のかよくわからなくなる。

猫がその気になれば、さっと姿を消して別の場所で生きていくことなんて容易だからだ。

それでも飼い主の元にとどまっているのは、単にその場所が心地いいだけではないような気がしてならない。

つまり猫は猫なりに、どんくさい人間という生物に対して、「こうすればもっと気持ちよく生きられるぞ」ということを教えてくれているのかもしれない。そこまでいかなくても、「なんかこいつ危なっかしくて、放っておけないなあ」と思われているのかもしれない。

そういう意味で、もはやどちらがお世話しているのかわからない。持ちつ持たれつというやつなのかもしれない。

とにかく猫は「心地よく生きる」ということに関して大先生なのである。

このことについて、我々人間は猫にもっと学んだらいいのになあ、と思うこともある。